2012年7月23日月曜日

「リトル・ピープルの時代」のウルトラマンと仮面ライダーの分析が面白かった


リトル・ピープルの時代

「1Q84」をはじめとする村上春樹作品と、ウルトラマンや仮面ライダー等のヒーローものとが並んで分析されていて意表をつかれたような感じがするけど、著者が論じているテーマを見ていくとなるほどなーと思うところも結構あった。

大きなテーマとしては、ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへという流れ。

ビッグ・ブラザーっていう言葉で表しているのは、世の中を決定付けるようなシステムとか仕組みのことで具体的な例としては、国民国家やマルクス主義。

リトル・ピープルっていう言葉で表しているのは、ビッグ・ブラザーのような巨大な単一のものに決定付けられるのではない無数の小さなもので、それらが乱立する世界になってきたということ。

ここ数十年で、ビッグ・ブラザーをベースにした世界からリトル・ピープルをベースにした世界に移り変わってきていて、そのテーマが村上春樹作品にも表れ、ウルトラマンから仮面ライダーシリーズの変遷にも反映されているという話。

特に、ヒーローものの分析が面白かった。

ウルトラマン

  • ビッグ・ブラザー的、近代的なヒーロー
  • ウルトラマン、ウルトラセブンの物語構造がサンフランシスコ体制の比喩として機能 p367
  • 絶対的な外部=光の国から来た巨人
  • 「ここではない、どこか」から来たものが重要

仮面ライダー

  • リトル・ピープル的、ポストモダン的なヒーロー
  • 世界の内側から生成した存在、カルト的な秘密結社によって昆虫の力を移植された改造人間
  • 超越者による状況介入ではなく、同格の存在同士の構想として「ヒーロー」の戦いを再定義
  • 「いま、ここ」にあるものが重要

中でも、平成仮面ライダーシリーズ第3作「仮面ライダー龍騎」はリトル・ピープル的状況をよく表している。

見たことないけど、なんと、13人の仮面ライダー同士のバトルロワイヤルで、生き残った最後の一人が望みを叶えられるという設定らしい。

著者の言葉をひくと
「そこには基本的に「悪」は存在しない。存在するのは13通りの、いやそれ以上の(n通りの)「正義」だ。」(p263)

「ビッグ・ブラザー(ウルトラマン)の死んだ後に、リトル・ピープル(仮面ライダー)たちのバトルロワイヤルが始まったのだ。それぞれの小さな正義/悪=欲望を掲げ、戦っていこ残るために。」(p264)

じゃあどうしていくかという時の可能性として国内のポップカルチャーを想定している。

「グローバル/ネットワーク化を背景に、<ここではない、どこか>を捏造するのではなく<いま、ここ>を多重化し、拡張する方向に進化してきた。」

この方向性の是非や細かい論旨へのツッコミは別として、この本の視点は面白かった。

2012年7月21日土曜日

日本のネットオタク向け文化、ゆるい流れも肯定的にみる「希望論 2010年代の文化と社会」

希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)

著者の一人の宇野さんが、以前、NHKスペシャルの「政治漂流」という番組の中の討論会で話しているのを見たことがあって興味を持って読んでみた。

本の全体的なテーマはこれからの日本をどうしていくかっていう話やけど、現状は、なんでもかんでもリーダーのせいにしがち。

NHKスペシャルの番組の作りも、「次の時代にふさわしいリーダー像は?」といった君主論ばかり論じていてこれではダメだという主張。

「誰が総理になろうが一年か二年で潰れてしまういまの日本を、もはや強力なリーダーシップを持ったリーダーと、彼(彼女)の語る(大きな)物語でまとめるのはもう諦めたほうがいい」(p178)


■日本人は近代社会としての成熟は諦めるべき?
じゃあどうするかっていうと、「もう日本人は近代社会として成熟を目指すのは無理だ、諦めろ」、個々人が自律するのは難しいから、「「強力なリーダーなんかいなくても回っていく社会」こそが、日本においては現実的」と。

リーダーのせいにしてもしょうがないっていうのは同感なんやけど、そこで自律を諦めてしまうしかないのかなー…
著者の主張としては、そこはすっぱり諦めてしまって、ゲーム的な構造をうまく使えという話。

「AKB48がそうであるように、「大きなゲーム」で社会をまとめることで、飛び抜けたリーダーなんかいなくても回っていくシステムの設計を考えたほうがいいんです」(p178)

ここでゲーム的な構造に期待するのは、結局その構造を設計する人に任せてしまうことになるので、リーダーに期待して終わりの話とあんまり変わらん気もするけど…ただ、まあ構造の部分を変えていかないとっていうのはあるか。


■「お昼ご飯に誘う」という程度のゆるい感じの流れもあるのでは
あとは日本におけるITやインターネット社会の流れの話は面白かった。著者の濱野さんは、ITは社会を変えるのかという議論について、ずっとうさんくさいと思ってきたということ。

ブログが…ツイッターが…フェイスブックが…アイフォンが…
社会を変えると言われているが、これはころころ意匠が変わるだけで同じパターン。

また、「シリコンバレーを日本にもつくろう」
「グーグルやアップルのような企業がなぜ日本に生まれないのか」
といった、いまだにアメリカに追いつけ・追い越せの話がメイン。

アメリカで数年前に流行ったものを日本にもってくればうまくいく
というタイムマシン経営を抜けきれていない。

こうした、梅田望夫さんに代表されるような技術決定論の流れがある一方で、
ひろゆき的なガラパゴス的な進化(2ちゃんねる、ニコニコ動画)の流れがある。

そして、どちらかと言うと、大所高所からの前者の話より、
気軽なというかゆるい感じの後者の流れの方が源流ではないかと言う話。

特に、慶應SFCの村井純さんがインターネットの国際化を頑張った理由の話が面白かった。
村井純さんがインターネットを頑張った理由を見ていくと…

当初は、論文も英語、ネットワーク用語もプログラミング言語も英語なので日本語はいらないかなと思っていた。ところが、アメリカのハッカー達と交渉して多言語化のための仕様を提案していく。

その理由がユニーク。

「研究室でインターネットに接続していて、となりの部屋の人を食事に誘うときに、英語だと気持ちが萎えるので日本語で書きたい」と思うようになったとのこと。

「つまり村井さんは、「日本語は日本人の重要なアイデンティティだから」とか、「ネット上で民主主義的な議論をするには自国語でなければならない」といった問題意識があったからではなくて、「お昼ご飯に誘う」程度のちょっとしたコミュニケーションのために、ものすごい努力をしたということなんです」―濱野さん
(p83-84)


■日本のネットオタク向け文化の可能性
もちろん、それだけではという部分もあるので次のようにも述べている。

「梅田望夫的な「情報技術で社会は変わる」式の技術決定論の立場でもなく、ひろゆき的な「どうせ日本人は2ちゃんねるやニコ動で戯れるだけ」という社会決定論の立場でもない、第三の道を探りたい」―濱野さん
(p77)

そこで、第三の道といった時に、ゲーム的なものという話につながってくる。具体的には、AKB48をファンの側も能動的にかかわれるアイドル育成ゲームとして説明したり、ゲーム型社会運動の話をしたり(そのへんの話はジェイン・マクゴニガルの「幸せな未来は「ゲーム」が創る」も参照)。

「僕が望んでいるのはそんな話じゃなくて、ニコニコ動画やピクシブといった日本のネットオタク向けのアーキテクチャが、果たして今後海外に出て行けるのかどうかなんです。しかもしれは、海外のスタンダードに合わせていくというのではなくて、むしろガラパゴス的な日本ならではの進化を突き詰めることで、他国からは出てきようもない、まったく新しいアノマリーなネットサービスなりプラットフォームが生まれてくるんじゃないか。そういう希望を僕は持っています」―濱野さん
(p129)

全体的にそこで諦めちゃっていいのかなーっていう気もするけど、内容の妥当性は別として、現状しょうがないやんっていうところを踏まえた上でどうするかっていうところでこの本の二人のように考え続けていかんといかんなーと思った一冊やった。