2014年10月25日土曜日

「社会心理学講義〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉」の感想

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)


かなり読み応えがあった。ライフネット生命の会長の出口さんが今年上半期に読んだ100冊以上の本の中でトップとしてあげていた本。ここしばらくこの本をずっと読んでたけど、読み終わってみて、強く推薦されるのがなるほどと思える内容やった。

決してすらすら読める本ではないけど出口さんも仰っているように著者の気迫が伝わってくる。人間とは、社会とは、それらを理解するためにどう考えていくと良いかというのが基本的なテーマ。

著者はパリ第八大学心理学部の准教授の方。日本の大学に入学後、授業にはほとんど出席せずに中退し、アルジェリアで1年間技術通訳を行った後、1981年にフランスに移住。当時は社会心理学の名前さえ知らない中で研究の道に進まれたということ。

あとがきに書いてあった言葉が印象的。

「研究のレベルなど、どうでもよい。どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると言う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません」(p392-393)

「確かに迷いは誰にもあります。私などは今でも迷ってばかりです。しかし文科系の学問なんてどうせ役に立たないと割り切って、自分がやりたいかどうか、それしかできないかどうかだけ考えればよいのだと思います。落語家もダンサーも画家も手品師もスポーツ選手もみな同じです。やりたいからやる。親や周囲に反対されてもやる。罵られても殴られても続ける。才能なんて関係ありません。やらずにはいられない。他にやることがない。だからやる。ただ、それだけのことです。研究者も同じではありませんか。死ぬ気で頑張れと言うのではありません。遊びでいい。人生なんて、どうせ暇つぶしです。理由はわからないが、やりたいからやる。それが自分自身に対する誠実さでもあると思います」(p393-394)

内容は、タイトルからして堅いし、目次も、科学の考え方、人格論の誤謬、主体再考、自由と支配、同一性と変化の矛盾といった感じで並べてみるだけでも骨太な感じではあるけど、1つ1つのテーマに関する章が意外にコンパクトで、結構テンポよく読める。ちょうど大学の講義1コマ分くらいの内容なのかなと思う。テーマは重たいし用語も結構やわらかくはないんやけど、表現や比喩も分かりやすくて文章自体は予想外に読みやすかった。

一方で、上記のあとがきにも表されているようにところどころ突き放されるような感覚もある。突き放されるというのは、「お前はどう考えるのか」と突きつけられていることでもあるのかなとも思った。そういう意味で思考力を使う内容。

さすがに一気に読める内容ではないので、考えながら少しずつ読み進めていったけど、ちょっと読み進めてはうーん…とうなるような感じで考え考え読んでいく感じ。気になるところに付箋を貼ってったんやけど、読み終えてみてみたら付箋だらけになっててもはやどこがポイントやったかようわからん、というか、全部ポイントに思えてくる。

というわけで全部をまとめるのは難しいのでキーワードだけ振り返ってみたけど、特に韻書に残ったのが同一性と変化の矛盾、人格論の誤謬、少数派の力といったあたり。これらのキーワードだけでもかなり考えるヒントになるものが多かった。

特に本書の中でも何度も出てくるのが同一性と変化の話。「生物や社会を支える根本原理は同一性と変化」(p11)だが、それらは矛盾する。

「変化が生ずれば、もはや同一ではないし、同じ状態を維持すれば変化しない」(p308)

変化しようとすると同一性が維持されなくなり、個人や社会にとっては危機ととらえられる面もある。それがどう両立しているのかということを考察していっている。

結論からいうと、これは錯覚によって成り立っているということ。大きな変化ではなく少しずつ変化することで、あたかも実際には同じ状態が維持されていると錯覚しつつ、実は変化は起きているというのが同一性の正体。

そしてここからさらに面白いのが、日本の西洋化の話。日本は支配されたりすることがなく、閉ざされていたりしたけど、だからこそ、西洋の価値を受け入れやすかったということ。閉ざされていることで自分たちのアイデンティティは保たれていると錯覚しているので、むしろ異文化が受容されやすくなる。

これをどうとらえて考えていくかっていうところは、すぐにはあんまり頭の中がまとまらんけど、いろんな場面でキーワードを頭に置きながら考えてみたいと思った。

上記とはちょっと違う角度からの話にはなるけど、ちょうど今日NHKの「SWITCHインタビュー 達人達」という番組を見たんやけど、その中で和田アキ子さんが言っていた以下の言葉が重なってきた。

「ファンの人っていうのは、いつも同じことをしていると「違うことをやってほしい」と思うし、違うことをやると「前の方が良かった」」

同じことばかりやと進歩はないんやけど、しかし変化を加えると必ずしもそれが良いかどうかはよく分からない。また、変化することによって、同一性、その人らしさが見方によっては失われてしまう。それをどう考えるか。

これって、クラウドサービスとかソフトウェアも通じるところがあるなとも感じた。どんどんアップデートを繰り返していくとUIやコードははじめの頃からはもはや別物に入れ替わっているかもしれない。しかし、同じものとして認識されるのはどういうことか。それを止揚しているのがブランドということなのかもしれなくて、だからこそブランドというのが重要なのかもと思った。

もう1つ印象に残ったのが人格論の誤謬や主体再考というテーマ。ざっくりまとめると、人間の主体性や人格として考えられているものは、実はどこまでそれが単独で成り立っているものなのか分からないという話。

自分が主体的に判断して行動していると思っていても、無意識の心理過程や外部環境に大きく影響を受けているということ。7つの習慣とかでは主体性を非常に重要視するけど、それとは逆の角度からの見方が出てくる。

例えば、ある実験で女性用ストッキングをスーパーに4足(中身は同じもの)吊るして展示して、どれが良いか街頭アンケートをした結果では、右側の商品ほど高い評価を受けたという話が紹介されていた。普通に考えればどれも似たような評価になるはずやけど、右側のものが評価が高い。

しかし、その理由を被験者に尋ねると、「こちらの方が肌触りが良い」とか「丈夫そうだ」とかもっともらしい答えが返ってきて、位置に言及する人はいない。

また、脳科学の本とかでもよく紹介されているけど、実は神経において、腕を動かすとか何か動作をする時に、腕を動かすという意識より先に腕を動かすための信号が発火しているという話なんかもあったり。

思っている以上に外部環境や情報の影響を受けているけど、それが明示的に認識されないがために、別の理由がつけられて整理される。そうすると、主体性っていうのはどこまであるのかっていうことになってくる。

「人間は主体的存在であり、意識が行動を司るという自律的人間像」(p192)ではなく、「社会の圧力が行動を引き起こし、その後に、行動を正当化するために意識内容を適応させる」(p192)という発想。

ここからさらに考えさせられるのが、集団力学や服従の話。有名な実験やけど、被験者に先生役と生徒役になってもらって、生徒が問題に間違えると先生が罰を与えるという設定。罰は電気ショックで、だんだんボルト数を強くする。

最初のうちは生徒は平気な様子だったのが、だんだんきつくなってくる。120ボルトで「痛い。ショックが強すぎる」、150ボルトで「もうだめだ。出してくれ。実験はやめる。これ以上は続けられない。実験を拒否する。助けてくれ」と叫びだす。

実験を続けるべきかどうか先生役の被験者が迷っても、実験者は続けるように指示をする。300ボルトになると「これ以上は質問されても答えるのを拒否する。とにかく早く出してくれ。助けてくれ。心臓が止まりそうだ」となり、345ボルトになると声が聞こえなくなるが、さらに450ボルトまで続けるように指示される。

実際には生徒役の人間はサクラで、演技をしているだけで本物の電気は通っていないということ。この設定下で先生役の被験者がどう振る舞うかというと、40人中26人は抵抗を覚えながらも450ボルトまで実験を続ける。

「高い服従率の理由は、自分は単なる命令執行者にすぎないと被験者が感じ、命令を下す実験者に責任を転嫁するから」(p67)ということではある。とはいえ、それでも続けるというのが衝撃的。

実際の組織の中でもこういうことは起こりえると思うし、逆に指示される側から指示を求めてくるケース(決めてください、私はそれに従いますからというスタンス)もあったりすると思うけど、それがもし上記のようなことにつながっていたりするかもしれないと思うとちょっと背筋が寒くなる。

もちろん、この話をどうとらえるかっていうのはいろいろ解釈も異なると思うし議論もあるところやと思うけど、人格、態度、主体というものにどれだけのものが帰着するのかということは改めて考える必要がありそうやなと感じた。その上でどう考えて行動していくかやけど、これはなかなかまた一筋縄ではいかん。

悩ましい、けど、こういう悩みと格闘していくことが、何をするにしても大事なんやろなーと思ったりもした。時間をおいてまた改めてじっくり読み直してみたい一冊やった。

ちなみに出口さんの紹介はこちら↓
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20131028/255113/

2014年10月3日金曜日

「絹の国拓く―世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」」で近代日本の絹産業の発展に思いを馳せる

絹の国拓く―世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」 

富岡製糸場を含む遺産郡の世界遺産登録の動きに向けて上毛新聞社が取材した内容をまとめたもの。1つのトピックが見開き2ページで解説されていて、写真もついていて読みやすい。一昨年くらいに富岡製糸場を見学する機会があったけど、その時見たものを思い返しながら読むとイメージできて良かった。逆に、行く前に読んでいたらもっと良かったなーとも思ったり。

内容は、冒頭に最近の世界遺産登録に向けての動きについてまとめられている後、時代をさかのぼって、富岡製糸場が建設される前夜くらいの時代から、その後持ち主が代わって最終的に操業停止に至るまでの様子が、時代の流れとともに描かれている。

世界遺産登録に向けての動きは、今でこそすごいとりあげられているけど、当初は「他国の遺産と比べると、製糸場は世界遺産には厳しいのではないか」(p14-15)とか、「世界遺産と言えば金閣寺のようなきらびやかなイメージがあった。地味な製糸場がなるなんて無理。そんなムードが漂っていた」(p16)という。

その中で、病気で余命宣告をされながら資産の保存や登録に向けた活動に取り組んだ方もいらっしゃったということ。石見銀山でも似たような話があったと思うけど、そうした方々の動きが実を結んで今があるんやなーと改めて感じた。登録されたっていうことだけをみるとそこにしか注目がいってなかったけど、そこまでのプロセスとか背景に思いを馳せるとまた見え方が違ってくるなーと思った。

また、富岡製糸場の話にフォーカスしているかと思いきやそうでもなく、周辺の絹産業の歴史にもかなりページが割かれている。そのへんがタイトルにも反映されているのかも(「富岡製糸場」だけではなく、「富岡製糸場と絹産業遺産群」となっている)。

個人的にはむしろそっちの話が知らなかったことも多く興味深かった。例えば、生糸を生産していたのは富岡製糸場だけではなく、周辺の農家もかなり生産していた。むしろその蓄積があったから富岡製糸場ができて発展できたということでもある。「碓氷社」という養蚕農家の集まりでは、手作業にもかかわらず、世界市場に向けて富岡製糸場をしのぐ量と質の生糸を生産したということ。

養蚕業の教育や展開にもかなり力を入れた人物の紹介もされていて、巣立った生徒は全国各地でまた展開を広げていったという。中には沖縄の人の名前も。富岡製糸場だけでなく、そうした動きも含めて全国の絹産業の発展に貢献していたということ。地元の会社の動きも活発で、イタリアのミラノに飛び込んで市場開拓をしたというエピソードも紹介されていた。

その他、上州の商人は開講当初から横浜でも活躍していて、横浜市の中区にはある商人の方の記念碑もあるということ。また、富岡製糸場自体も、横浜の三渓園で有名な原富太郎の会社が引き継いでいたり、生糸の輸出は横浜の象の鼻から行われていたという話もあったりと結構横浜とも縁が深い。その他にも、遺産群の中には蚕種の貯蔵に使われた下仁田の氷穴もあり、下仁田は母の実家なんでこれもまた興味深かった。

最後の方では、操業停止になる様子が描かれているけど、その時の所有者の片倉工業の社長の方が閉所式で話された言葉も印象的。

「歴史的、文化的価値が高いと評価を受ける建物は、単なる見せ物ではなく、ニュー片倉にふさわしいものとして活用する」(p139)

これが1987年3月のこと。そこから世界遺産に登録されるまでにはさらに27年の年月がある。その間守り抜いていた方がいらっしゃったからこそまたこうして遺産として歴史に残っていくんやということ。日本の近代化の流れを踏まえつつ、富岡製糸場と絹産業遺産群をめぐる動きも知ることができて、感慨深さや刺激が得られる一冊やった。