2014年10月3日金曜日

「絹の国拓く―世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」」で近代日本の絹産業の発展に思いを馳せる

絹の国拓く―世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」 

富岡製糸場を含む遺産郡の世界遺産登録の動きに向けて上毛新聞社が取材した内容をまとめたもの。1つのトピックが見開き2ページで解説されていて、写真もついていて読みやすい。一昨年くらいに富岡製糸場を見学する機会があったけど、その時見たものを思い返しながら読むとイメージできて良かった。逆に、行く前に読んでいたらもっと良かったなーとも思ったり。

内容は、冒頭に最近の世界遺産登録に向けての動きについてまとめられている後、時代をさかのぼって、富岡製糸場が建設される前夜くらいの時代から、その後持ち主が代わって最終的に操業停止に至るまでの様子が、時代の流れとともに描かれている。

世界遺産登録に向けての動きは、今でこそすごいとりあげられているけど、当初は「他国の遺産と比べると、製糸場は世界遺産には厳しいのではないか」(p14-15)とか、「世界遺産と言えば金閣寺のようなきらびやかなイメージがあった。地味な製糸場がなるなんて無理。そんなムードが漂っていた」(p16)という。

その中で、病気で余命宣告をされながら資産の保存や登録に向けた活動に取り組んだ方もいらっしゃったということ。石見銀山でも似たような話があったと思うけど、そうした方々の動きが実を結んで今があるんやなーと改めて感じた。登録されたっていうことだけをみるとそこにしか注目がいってなかったけど、そこまでのプロセスとか背景に思いを馳せるとまた見え方が違ってくるなーと思った。

また、富岡製糸場の話にフォーカスしているかと思いきやそうでもなく、周辺の絹産業の歴史にもかなりページが割かれている。そのへんがタイトルにも反映されているのかも(「富岡製糸場」だけではなく、「富岡製糸場と絹産業遺産群」となっている)。

個人的にはむしろそっちの話が知らなかったことも多く興味深かった。例えば、生糸を生産していたのは富岡製糸場だけではなく、周辺の農家もかなり生産していた。むしろその蓄積があったから富岡製糸場ができて発展できたということでもある。「碓氷社」という養蚕農家の集まりでは、手作業にもかかわらず、世界市場に向けて富岡製糸場をしのぐ量と質の生糸を生産したということ。

養蚕業の教育や展開にもかなり力を入れた人物の紹介もされていて、巣立った生徒は全国各地でまた展開を広げていったという。中には沖縄の人の名前も。富岡製糸場だけでなく、そうした動きも含めて全国の絹産業の発展に貢献していたということ。地元の会社の動きも活発で、イタリアのミラノに飛び込んで市場開拓をしたというエピソードも紹介されていた。

その他、上州の商人は開講当初から横浜でも活躍していて、横浜市の中区にはある商人の方の記念碑もあるということ。また、富岡製糸場自体も、横浜の三渓園で有名な原富太郎の会社が引き継いでいたり、生糸の輸出は横浜の象の鼻から行われていたという話もあったりと結構横浜とも縁が深い。その他にも、遺産群の中には蚕種の貯蔵に使われた下仁田の氷穴もあり、下仁田は母の実家なんでこれもまた興味深かった。

最後の方では、操業停止になる様子が描かれているけど、その時の所有者の片倉工業の社長の方が閉所式で話された言葉も印象的。

「歴史的、文化的価値が高いと評価を受ける建物は、単なる見せ物ではなく、ニュー片倉にふさわしいものとして活用する」(p139)

これが1987年3月のこと。そこから世界遺産に登録されるまでにはさらに27年の年月がある。その間守り抜いていた方がいらっしゃったからこそまたこうして遺産として歴史に残っていくんやということ。日本の近代化の流れを踏まえつつ、富岡製糸場と絹産業遺産群をめぐる動きも知ることができて、感慨深さや刺激が得られる一冊やった。

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