2013年6月28日金曜日

「早わかり ミャンマービジネス」はミャンマーに仕事関連で行くなら一度読んでおくと全体観がつかめそう

早わかり ミャンマービジネス (B&Tブックス)

 ミャンマーの歴史や政治、産業構造といった全体的な話から、商慣行や投資制度、会社設立手続き、経済特区や産業団地などのビジネス実務に関する情報がトピック別に整理されている。タイトルにもあるようにどちらかというと後者のビジネス系の話が中心。

結構具体的に進出を考える人向けに役立つように、日本政府のミャンマー政策、日系企業の進出事例、現地の事務所などの連絡先等が載っていてハンドブック的な要素もある。進出事例では、婦人服、医療機器、ITの他に東北の蒲鉾製造業の企業の事例とかが紹介してあって、その企業は1983年から事業を進めてきていると知って単純にすごいなと思った。

1つ1つのトピックは詳細な感じではないけど全体観をつかむのには良いかも。あと、当たり前やけど知らんことがいっぱいあって面白かった。

例えば自動車の話。最近は輸入が増えているけど以前は軍政によって輸入枠が絞り込まれていたため供給が限られていたので世界一中古車が高い国だったらしい。カローラが小売価格で1000万円、ランドクルーザーが3500万円とかしたと。なお、今は緩和されてきているので供給も増えて価格も下落しているらしい。

また、ミャンマー人の特性の話も印象に残った。「できますか」と聞くと、ミャンマーのビジネスパーソンは必ず「できます」と答えるらしく、商慣行上「できない」という返事はないらしい。このため、相手と信頼関係を構築して性格を把握することが大事やということ。あとはプライドが高く、嫉妬心が強いとか恥ずかしがりやとかが挙げられていた。

もちろん、「日本人は…」と一口にいってもいろんな人がおるように、全部が全部みんなに当てはまるわけではないとは思うけど、相手のパラダイムを理解するのには頭に入れておくと良いかもと思った。

あとは、名前に姓がないらしい。このへんはインドのタミルとかも一緒かなー。ちなみに「アウンサンスーチー」さんは、「アウンサン」が苗字で「スーチー」が名前ではなく、「アウンサンスーチー」で1つの名前らしい。知らんかった…

本書の中でもインフラがいろいろ未整備で課題も多いことは語られているけど、国民性も日本人と親和性が高く日本との関係も良好で官民連携のタスクフォースもできているくらいで連携推進が進められているし、識字率も高く人口も結構いて政治的にもこれから安定していけば面白い国やろなーと思った。

ミャンマーに仕事関連で行くなら一度読んでおくと全体観がつかめて良さそうな一冊やと思った。

2013年6月27日木曜日

「ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方」という視点から仕事について再考察できる一冊

ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方

「すごい技もなければ新しい働き方についてのノウハウもありません」とあとがきで書いてあるように、目から鱗!みたいな話ではないしその考え方はどうなんやろうなーと思うところもある。

でも、よくよく考えるとそうだよなーみたいなところも結構あって、スルメみたいによく読むと味が出る感じの本。「こう考えたら理不尽な苦労なく解決できるんじゃないか」(p238)という著者の想いがベースになっている感じ。


■ナリワイという働き方
ここで提唱されている働き方というのは、特定の会社、業種やスキルに依存しなくていいように、複数のスキルをもってそれらを組み合わせながら生きていくというもの。

著者自身も「モンゴル武者修行ツアー」の開催、田舎での暮らし方スクール、古い木造校舎でのウェディング、シェアオフィス、京都での一棟貸しの宿の運営、農家の手伝い、農産物商品の開発・販売等々、いろんな「ナリワイ」を持っている。それも無理に見つけたというよりはつながりの中で広がっていったものがほとんど。

こうしたような月数万円くらい稼げるものを10くらい持てれば十分生きていけるのではないか、また、世の中の状況の変化に対してはその方が強いのではないかという考え方。

ナリワイといってももやっとしたコンセプトで著者自身も強いコンセプトではないと言っているけど、次のような意味があるということ。

「ふつーの人が、ポストグローバリゼーション時代に、自分のできる範囲の労力で、工夫し、考えて生活をつくる態勢を確保しつつ、必要とあらば市場経済のなかに切り込んで行く、という精神的余裕を生み出す意味を持っている」(p209)


■バトルタイプではない生き方
これは現在の働き方として良く言われる次のような考え方に対するアンチテーゼになっている。

「これからさらにグローバル化が進み競争が激しくなる、だから世界に通用する高いレベルで能力を磨き、自分自身を広告的に宣伝し、稼げる仕事をしていこう」(p6)

これに関して著者は、次のように述べている。

「グローバル社会で全世界を相手にした殴り合いの競争をして健康を実現できるのは、かなりのバトルタイプ(戦闘型)だけだ。
本書で述べる「ナリワイ」の作戦は、そうではない。でかい仕事はバトルタイプの戦場だ。隆盛を誇った巨大ウェブサービスが数年で衰退したという事例を、現代に生きる私たちは目の当たりにしている。「ナリワイ」は、そうではなく、小さな仕事を組み合わせて生活を組み立てていく」(p7)

無理にがむしゃらに働いてストレスがたまる一方で休日も楽しめなかったり、無理にお金を使ったりしているような状況は「人生を盗まれている」(p8)のではないか。そうであるなら、いきなり全部自活するのは無理だとしても、少しずつでも生活自給力を高められるような生き方があるのではないかという話。

何を生ぬるいことを…というような批判が聞こえてきそうな感じではあるし、自分がそういう方向にいくかどうかは別として、考え方としては一理あるなーと思った。次の比喩も面白い。

「サッカーボールも触ったことがない人間に、いきなり公式戦に出てシュート決めろ、などと言って、うまくいくのは一部の天才だけだ。ましてや、グローバリゼーション時代は、いきなりワールドカップに出ろ、と言われかねない時代である。常人はそもそも試合に出る前に、ルールを覚えたり、基本的な作戦を知ったり、ボールの扱い方を知ったり、ドリブルの練習をしたり、パス回しの練習をしなければならない。
それがナリワイにあたるのだ。外貨獲得的な産業振興は、それこそワールドカップにあたる。いきなり目指すものじゃない。」(p219)

サッカーボールくらいは触ったことがある人は多いかもしれないけど、確かにいきなりワールドカップに出ても戦えるようになれ的な話になっている気がする。もちろん、いきなり目指すという道もあるとは思うけど、一方で、そうではない中でやっていく、あるいは、いきなりそこに行く前に道があっても良いと思う。

そういう意味で地に足のついた働き方や生き方をもう一度考えてみませんかということやと思った。


■専業化の歪み
あと、もう1つ印象に残ったのは分業の話。効率化を追求して分業を進めた結果、仕事の実感が失われて全体観や本質が見えにくくなった。「個々人の役割が分断された結果、何のためにやっているのか見えにくくなってしまったこと」(p66)により、組織の内部規定が優先されたりして本来重要なものが後回しにされたりしている。

そして、個人個人が悪いことをしようとか、怠けようとか思っているわけではないのにこうなってしまうところが問題。

「個人個人は「一生懸命」にやっているのだが、その上でなお問題が起きてしまう、という構造になってしまっているのである。もう単に頑張るだけでは余計に問題が起きる時代になっている。これは困ったことである」(p67)

この間読んだスターバックスの本にも似たような話があった。

「スターバックスの大半の部署は、目的を達成しようと誠心誠意尽くしていた。しかし、それが、最良のやり方ではないときもあったのだ」
(「スターバックス再生物語 つながりを育む経営」p221)

「わたしたちは一生懸命やっていました。でも、わたしはお客様にサービスを提供する機会を失っていたんです。それを申し訳ないと思っています」
(「スターバックス再生物語 つながりを育む経営」p359)

上記と通じる話として、何かを専業化してしまうと歪みが発生するという話も興味深かった。例えば「モンゴル武者修行ツアー」は今年2回くらいだからゆったり楽しみながら続けていられるが、専業化すると毎月モンゴルに行く必要が出てきたりして、やる気も落ちるし参加者のマッチ度も下がったりしてストレスが増える。

その他の例として著者が指摘しているのがウェディング業界。効率を上げるためには仕方ないけど、次々と式を処理していくために、プラン化してその中からひたすら選んでいくような作業を繰り返し、担当者もある程度型にはまった対応をせざるを得なくなる。

そうではなく、例えばナリワイの1つとして年に1-2組くらいのウェディングをじっくりプロデュースする形なら、たとえ素人的な要素が多少入ってくるとしても企画する方も式を挙げる方の満足度もより高いものにできるのではないかと述べられている。

今やっている仕事にとらわれるのではなく、違った角度から仕事について考える際に1つの視点として面白い一冊やった。

 

2013年6月21日金曜日

「部長の経営学」というよりは「同族」や「ミドルの声」を評価する一冊

部長の経営学 (ちくま新書)  

タイトルからすると、部長のような中間管理職層も経営視点を持ってマネジメントしていきましょうというような心構えの話かなーと思っていたけど、ちょっと違った角度からの話やった。

■企業は誰のものか
企業の存在意義、企業はだれのものかといったテーマから始まっていて、「投資家資本主義」「株主重視」の統治形態についての批判が述べられている。

このあたりは、岩井克人さんの「会社は誰のものか」の話と通じるところが多い。ただ、この本の方は分析と言うよりは、いろんな資料からの情報を元にして整理している感じでまとめといった感じで、岩井さんの本の方が分析や考察としては考えさせられるところが多かった気がする。


■「同族」の意義
そんなところもあって前半は復習みたいな感じでさらっとなんとなく読んでたけど、途中からのテーマが面白かった。それは「同族」企業についての話。

株式所有構造や経営者の属性から「同族」の存在感をみていき、「同族」は不祥事の温床か?低業績の温床か?といったことを整理しながら「同族」に対する一方的なネガティブイメージに疑問を投げかけている。

あと、ヨーロッパやアジアに比べればアメリカの企業には同族企業が少ないようなイメージがあるが、アメリカの大手企業2000社(金融、公益企業を除く)に関するある調査結果によると、約半数が同族によって支配されているとのこと(p94)。

同様に、「ビジネスウィーク」の2003年11月10日号の特集では、S&P500社の3分の1では創業家が経営に関与していて良い業績を示していることがとりあげられているという(p116)。

なぜ同族が貢献しているかという理由の1つとして「コミットメント」の強さがあげられている。

「同族には、ごく短期にとどまらず、当該企業の経営が「孫子の代まで」中長期にわたって健全な状態であることを期待するインセンティブがあると考えるのが自然です」(p139)

その上で、長期的なコミットメントをもつプレイヤーとしての「同族」を評価している。


■「ミドルの声」の重要性
これと同じ論理で「ミドルの声」も重視されている。

これは、株式市場で株式を売ったり買ったりしていてコミットメントが短い株主に比べれば、働く場として企業にコミットしているミドルの方が中長期的な観点からは重要であるという視点。

こういう視点からミドルの重要性を整理しているのは面白いなと思った。


全体的には、「投資家資本主義」「株主重視」への批判の視点については、それはそれで分かるけど一方的な感じもしないでもない。ただ、中長期的なコミットメントという視点から、ネガティブにのみ見られがちな「同族」、あるいは、同じ視点から「ミドルの声」を重視するべきという視点は参考になる一冊やった。



2013年6月19日水曜日

分かっちゃいるけどできない「実行力不全」

実行力不全 なぜ知識を行動に活かせないのか (Harvard business school press)

経営手法や業績向上のノウハウについて、本や研修、セミナー等を通じて巷に情報があふれていてたくさんの人が知っている。しかし、実際にそれをしっかり実行できている人や組織は少ない。そのギャップはなぜなのかという問いからスタートする本。

以下のあたりが気になる人は読むと面白いかも。

■言葉が行動のかわりになってしまう理由
・話し合いの結果を実際に行ったかどうかを確かめるフォローアップが何も行われない。
・決定しただけでは何も変わらないことを、人々が忘れている。
・計画立案、会議、レポート作成などがそれ自体重要な「行動」になっている。しかし、実際の行動には何の影響も与えていない。
・話し合ったのだから、社訓に書かれているのだから、それは事実に違いないし、社内で実行されているはずだと考える。
・実行力より、スマートな発言が評価される。
・発言が多いことが、仕事ができることだと誤解される。
・複雑な用語、アイデア、プロセス、構造などが、単純なものよりもよいと考えられている。
・マネジャーは言葉の達人であり、部下は行動する人という考え方がある。
・社内でのステータスが、たくさん発言し、相手の発言をさえぎったり、批判的なコメントをはさんだりすることで決まる。
(p67)


「知識はもっともなものだが、マネジャーの行動にさっぱり現れてこないのだ。なぜだろう?
やり方を知っているだけでは不十分なのだ。才気だけでは、知識を実行できない。すばらしいアイデアも、読んだり、聞いたり、考えたり、書いたりするだけではだめなのだ」(p3)

「私たちは、知識の伝達や情報の交換がすばらしく効率的にできる時代に生きている。情報を集めて伝えることがビジネスにもなる時代だ。だから、知識の量にはそれほど差がなくなった。しかし、知識に基づいて行動するとなると、企業によって大きな差がある」(p256)


■なぜ知識を行動に変えられないのか
本書を通底する問いは以下のようなもの。

「企業はなぜ知識を行動に変えられないのか?」
「この問題を克服した企業はどのような手段を用いたのか?なぜそうしたのか?」(p4)

訳書の「実行力不全」という題名もそれをあらわしているけど、原著の題名も「The Knowing-Doing Gap」とあり、それをよくあらわしている。この本ではたくさんの事例を通じてこの問いについて繰り返し繰り返しいろんな角度から考察されている。

最初の方では、いかに知識と行動にギャップがあるか、良い知識やノウハウがあってもたとえ同じ会社内であってもうまく伝わらず、さらには実行されないということがいろんな会社の例を通じて紹介されている。例えば、あるメーカーの次のようなエピソードが紹介されている。

「「そうするべきだ」とCEOは決断した。……エンジニアリング部長も同意した。……ただし、部長は実行することに同意したのではない。「そうするべきだ」という考えに同意したのである。決定は従業員に伝えられた。みんなの期待は高まった。少なくともある程度は実行されるだろう。しかし何も起こらなかった」(p46)


■なぜ知識と行動のギャップが生まれるのか
言葉が行動のかわりになってしまう、計画しただけで行動した気になる…といった言葉が並んでいる。自分自身も分かっていても実行できてないことがたくさんあるので耳が痛いことがたくさん。
2章以降の各章では、なぜギャップが生まれていくかということについて、テーマを1つずつ挙げて事例を紹介している。章立てを見てもこんな感じ。

・言葉を行動と錯覚してはいないか?
・前例が思考を妨げる
・恐怖心が行動をはばむ
・評価方法が判断力を狂わせる
・内部競争が敵をつくる

1つ1つのテーマは言われてみれば当たり前なんやけど、組織としてはそうなってしまいがちな感じのテーマが多く、改めて気づかされるポイントも少なくない。


■何はともあれ実行
その上で、じゃあどうしていけば良いかというと、7章で事例がいくつか紹介されている。ブリティッシュ・ペトロリアムやバークレイズ・グローバル・インベスターズ、ニュージーランド・ポスト等。社内での情報共有やコミュニケーション、制度設計がどのように行われたかが紹介されている。あくまで概要の紹介レベルなのでさらっと読んでいくとふーんっていう感じで終わっちゃう。このため、具体的にどう進めていったかは個々の事例をみていく必要があるけど、全体を通じては、やはり実行が重視されている。

「本当に実行できる知識は、本を読んだり人に聞いたり、考えたりして学ぶことよりも、行動から得られる」(p22)

むやみやたらに実行だけしてもダメなことはダメということはあるが、実行しないよりは実行して失敗した方がベターという話なのでまずは実行ということか。

いずれにしても、どうすればの具体策は置いておいたとしても、知識と行動のギャップを認識できるだけでも価値がある一冊やと思った。

2013年6月4日火曜日

「暇と退屈の倫理学」はカバー文章は浅そうな感じやけど中身は読んでみたら深かった

暇と退屈の倫理学

 ■なぜ豊かさを喜べないのか
「人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか?」(p16)という、著者いわく「単純な問い」を巡る考察。

予約して借りたら、表紙に書いてあるのが以下の文章で若干読む気が萎えたけど、中身は予想と全然違ってハードやった。

「何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい……。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。」

カバー文章もこんなやし、暇とか退屈とかってなんかイロモノかと思ってたら、パスカルとかハイデガーとかも退屈とか暇について相当マジメに分析しているらしい。そのへんを引き合いに出しながら著者の考え方が整理されている。

このカバーの文章は自分探し系の色を狙ったのかもしらんけど、正直中身と合ってないと思う。久々に読み応えのある本を読んだ感じ。

「退屈の第三形式」とか言って仰々しい名前をつけているけど、その定義の中身は「なんとなく退屈だ」とか書いてあって、吹き出しそうになったけど、よくよく読んでいったら結構深い話になっていった。「哲学」と題しているけど、考古学、歴史学、人類学、経済学、社会学、政治学、心理学等々、いろんな分野の話がからんでくる話。正直こんなに深い話だと思ってなかったけど、読み終えたらこれはスゴイ本やと思った。


■暇を生きる術を知らない人間の大量発生
資本主義の展開、経済の発展によって少なくとも先進国の人は裕福になり、暇を得たけど、その暇をどう使っていいか、何が楽しいのかがわからない(p23)。好きに暇をつかったら良いかと思えば自分の好きなことが分からない。

そして、かつての有閑階級は暇のなかでどう退屈せずに生きていくかその術を知っていたけど、資本主義の発展により労働者に余暇の権利が与えられるようになり、その結果どうなったかというと…

「暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生した」(p113)

要するに、生きるだけで精一杯で暇つぶしのことなんて考える余裕がなかった人が大半だった時期から、なんとなく退屈したり暇な時間のつぶし方に思い悩んだりする人が急激に増加したということ。どっちが幸せかとかっていう議論は別にあるとしても、そういう状況が発生しているということ。


■なぜ人類は暇や退屈と向き合わなければならなくなったのか―定住革命
もう少し大きな時間の流れからみて、人類がなぜ暇や退屈と向き合わなければならなくなったのかという話の背景にあるのが「定住革命」の話。これが面白かった。定住が始まってからの1万年の間には、農耕や牧畜の出現、人口の増加、国家や文明の発生、産業革命、情報革命とそれまでの数百万年と比べ物にならないほどの大きな出来事が起こっている(p80)。

定住する前の遊動生活においては、定期的に移動をすることによって五感をフルに働かせて新しい環境に適応する必要がある。すなわち、退屈する暇がない。これに対し、定住後は安定した生活が送れるが、安定するがゆえに退屈が生まれる。探索能力を発揮するために発達した大脳の能力が余ってしまい、退屈をもたらした。

定住革命に関連して、そうじやトイレもあり方が変わったという話も面白かった。それまでは移動しちゃうのでゴミや排泄物は適当にしておけばよかったけど、定住して1つの場所にとどまるということは何らかの形でそれらを処理せないかん。そしてトイレを使うというのは生物としては高度な行動だとしている。その一例として、人間の子どもがオムツを使わなければならないという話があげられている。

最近布オムツから紙オムツへの移行によってオムツ離れの時期が遅れてきているが、それは
「決められた場所で排泄を行うという習慣が、人間にとってすこしも自然でない」(p83)
としている。

つきつめると、要するに人間は暇や退屈だからいろんなことをやってるっていう話。こうやって感想を書いてフェイスブックにアップするのもそう言われればそうやし、一回この話をベースにして考えるといろいろ突き放して物事が見れて面白いかもなと思った。


■消費対象としての労働
労働について、ボードリヤールの議論が紹介されていて印象に残ったのが以下の一節。

「現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「盲に一五時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。
 これは労働そのものが何らの価値も生産しなくなったという意味ではない。当然ながら社会のなかにある労働は価値を墓しているし、それがなければ社会はまわらない。「労働の消費」という事態が意味しているのはそうではなくて、消費の論理が労働をも覆い尽くしてしまったということである」(p152)

人間は、ふだんは退屈と切り離せない生を、退屈となんやかんやとつきあいながら生きているが、ある瞬間にそれが耐え切れなくなることがある。

「何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。
 (中略)
 自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る」(p305)

本当に好きで物事に打ち込むのではなく、退屈から逃れるために何かに没頭することを「奴隷になる」と表現している。

別にそれはそれでいいとは思うけど、極端になってしまうと、世の中の多くの人にとって大変な方向に行きかねない可能性がある。

「なぜ人は過激派や狂信者たちをうらやむのか?いまや私たちはこの問いに明確に答えることができる。過激派や狂信者たちは、「なんとなく退屈だ」の声から自由であるように見えるからだ。
 彼らをおそろしいと同時にうらやましくも思えるとき、人はこの声に耐えきれなくなりつつあり、目をつぶり、耳をふさいで一つのミッションを遂行すること、すなわち奴隷になることを夢みているのだ」(p321)

極端な議論だとは思うし全部が全部何にでも当てはまるわけではないとは思うけど、こういう切り口で見たことがなかったので新鮮やった。


■暇のなかでいかに生きるべきなのか
そこで、改めて考えるべきことは、「暇のなかでいかに生きるべきなのか、退屈とどう向き合うべきか」(p24)という問い。タイトルにもなっている「暇と退屈の倫理学」はこれを考えていくもの。

じゃあ好きなことややりたいことをやればいいやんっていう話になるけど、現代ではそれも本当に好きでやりたいことではなく、生産者によって創りだされているものという話がされている。

「たとえば数年前まで問題なく使っていたパソコンとそのソフト。なぜそれをいまも使うことができないのか? これ以上ワープロソフトが進化したところでほとんどの利用者には関係がない。ワープロソフトの利用者が一年ごとのソフトの進化を望んでいるわけではない。ソフト会社が「こんどのバージョンにはこんな機能がついていますよ」「すばらしいでしょ」「欲しいでしょ」と言っているにすぎない。利用者の欲望を作り出しているにすぎない。」(p152)

このへんはソフトウェア販売に携わっている者としては耳が痛いな~。

じゃあどうしたらいいかというと、結局は、退屈から逃れようとして盲目的な決断をくだして何かの奴隷になるのではなくて、退屈とうまくつきあいながら人間の生活を楽しもうというのが最後の主張。

結論だけ読むとふーんって感じなんやけど、そこに至るまでの過程を読み通してからみると違う見え方がすると思う。

どこかのタイミングでまた改めて読んでみたいと思える一冊やった。