2013年6月4日火曜日

「暇と退屈の倫理学」はカバー文章は浅そうな感じやけど中身は読んでみたら深かった

暇と退屈の倫理学

 ■なぜ豊かさを喜べないのか
「人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか?」(p16)という、著者いわく「単純な問い」を巡る考察。

予約して借りたら、表紙に書いてあるのが以下の文章で若干読む気が萎えたけど、中身は予想と全然違ってハードやった。

「何をしてもいいのに、何もすることがない。だから、没頭したい、打ち込みたい……。でも、ほんとうに大切なのは、自分らしく、自分だけの生き方のルールを見つけること。」

カバー文章もこんなやし、暇とか退屈とかってなんかイロモノかと思ってたら、パスカルとかハイデガーとかも退屈とか暇について相当マジメに分析しているらしい。そのへんを引き合いに出しながら著者の考え方が整理されている。

このカバーの文章は自分探し系の色を狙ったのかもしらんけど、正直中身と合ってないと思う。久々に読み応えのある本を読んだ感じ。

「退屈の第三形式」とか言って仰々しい名前をつけているけど、その定義の中身は「なんとなく退屈だ」とか書いてあって、吹き出しそうになったけど、よくよく読んでいったら結構深い話になっていった。「哲学」と題しているけど、考古学、歴史学、人類学、経済学、社会学、政治学、心理学等々、いろんな分野の話がからんでくる話。正直こんなに深い話だと思ってなかったけど、読み終えたらこれはスゴイ本やと思った。


■暇を生きる術を知らない人間の大量発生
資本主義の展開、経済の発展によって少なくとも先進国の人は裕福になり、暇を得たけど、その暇をどう使っていいか、何が楽しいのかがわからない(p23)。好きに暇をつかったら良いかと思えば自分の好きなことが分からない。

そして、かつての有閑階級は暇のなかでどう退屈せずに生きていくかその術を知っていたけど、資本主義の発展により労働者に余暇の権利が与えられるようになり、その結果どうなったかというと…

「暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生した」(p113)

要するに、生きるだけで精一杯で暇つぶしのことなんて考える余裕がなかった人が大半だった時期から、なんとなく退屈したり暇な時間のつぶし方に思い悩んだりする人が急激に増加したということ。どっちが幸せかとかっていう議論は別にあるとしても、そういう状況が発生しているということ。


■なぜ人類は暇や退屈と向き合わなければならなくなったのか―定住革命
もう少し大きな時間の流れからみて、人類がなぜ暇や退屈と向き合わなければならなくなったのかという話の背景にあるのが「定住革命」の話。これが面白かった。定住が始まってからの1万年の間には、農耕や牧畜の出現、人口の増加、国家や文明の発生、産業革命、情報革命とそれまでの数百万年と比べ物にならないほどの大きな出来事が起こっている(p80)。

定住する前の遊動生活においては、定期的に移動をすることによって五感をフルに働かせて新しい環境に適応する必要がある。すなわち、退屈する暇がない。これに対し、定住後は安定した生活が送れるが、安定するがゆえに退屈が生まれる。探索能力を発揮するために発達した大脳の能力が余ってしまい、退屈をもたらした。

定住革命に関連して、そうじやトイレもあり方が変わったという話も面白かった。それまでは移動しちゃうのでゴミや排泄物は適当にしておけばよかったけど、定住して1つの場所にとどまるということは何らかの形でそれらを処理せないかん。そしてトイレを使うというのは生物としては高度な行動だとしている。その一例として、人間の子どもがオムツを使わなければならないという話があげられている。

最近布オムツから紙オムツへの移行によってオムツ離れの時期が遅れてきているが、それは
「決められた場所で排泄を行うという習慣が、人間にとってすこしも自然でない」(p83)
としている。

つきつめると、要するに人間は暇や退屈だからいろんなことをやってるっていう話。こうやって感想を書いてフェイスブックにアップするのもそう言われればそうやし、一回この話をベースにして考えるといろいろ突き放して物事が見れて面白いかもなと思った。


■消費対象としての労働
労働について、ボードリヤールの議論が紹介されていて印象に残ったのが以下の一節。

「現在では労働までもが消費の対象になっている。どういうことかと言うと、労働はいまや、忙しさという価値を消費する行為になっているというのだ。「盲に一五時間も働くことが自分の義務だと考えている社長や重役たちのわざとらしい「忙しさ」がいい例である」。
 これは労働そのものが何らの価値も生産しなくなったという意味ではない。当然ながら社会のなかにある労働は価値を墓しているし、それがなければ社会はまわらない。「労働の消費」という事態が意味しているのはそうではなくて、消費の論理が労働をも覆い尽くしてしまったということである」(p152)

人間は、ふだんは退屈と切り離せない生を、退屈となんやかんやとつきあいながら生きているが、ある瞬間にそれが耐え切れなくなることがある。

「何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。
 (中略)
 自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る」(p305)

本当に好きで物事に打ち込むのではなく、退屈から逃れるために何かに没頭することを「奴隷になる」と表現している。

別にそれはそれでいいとは思うけど、極端になってしまうと、世の中の多くの人にとって大変な方向に行きかねない可能性がある。

「なぜ人は過激派や狂信者たちをうらやむのか?いまや私たちはこの問いに明確に答えることができる。過激派や狂信者たちは、「なんとなく退屈だ」の声から自由であるように見えるからだ。
 彼らをおそろしいと同時にうらやましくも思えるとき、人はこの声に耐えきれなくなりつつあり、目をつぶり、耳をふさいで一つのミッションを遂行すること、すなわち奴隷になることを夢みているのだ」(p321)

極端な議論だとは思うし全部が全部何にでも当てはまるわけではないとは思うけど、こういう切り口で見たことがなかったので新鮮やった。


■暇のなかでいかに生きるべきなのか
そこで、改めて考えるべきことは、「暇のなかでいかに生きるべきなのか、退屈とどう向き合うべきか」(p24)という問い。タイトルにもなっている「暇と退屈の倫理学」はこれを考えていくもの。

じゃあ好きなことややりたいことをやればいいやんっていう話になるけど、現代ではそれも本当に好きでやりたいことではなく、生産者によって創りだされているものという話がされている。

「たとえば数年前まで問題なく使っていたパソコンとそのソフト。なぜそれをいまも使うことができないのか? これ以上ワープロソフトが進化したところでほとんどの利用者には関係がない。ワープロソフトの利用者が一年ごとのソフトの進化を望んでいるわけではない。ソフト会社が「こんどのバージョンにはこんな機能がついていますよ」「すばらしいでしょ」「欲しいでしょ」と言っているにすぎない。利用者の欲望を作り出しているにすぎない。」(p152)

このへんはソフトウェア販売に携わっている者としては耳が痛いな~。

じゃあどうしたらいいかというと、結局は、退屈から逃れようとして盲目的な決断をくだして何かの奴隷になるのではなくて、退屈とうまくつきあいながら人間の生活を楽しもうというのが最後の主張。

結論だけ読むとふーんって感じなんやけど、そこに至るまでの過程を読み通してからみると違う見え方がすると思う。

どこかのタイミングでまた改めて読んでみたいと思える一冊やった。

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