2013年7月30日火曜日

メンターBOOKS 課長ビギナーのFAQ

すでに何冊も本を出されていてそこにも書かれているけど、奥さんがうつ病にかかったり、お子さんが自閉症だったりする中でどのように「ワーク」と「ライフ」のバランスをとるという以上に「マネジメント」をし、死に物狂いで仕事の効率化を行いつつ、最終的には東レの社長まで勤め上げた方が、課長時代のことを思い返しつつ新任の管理職になった方に向けて書かれた本。

書かれている内容は他の本と通じるところも多いけど、FAQの体裁をとっていて読みやすい。各章の質問の内容については実際にさまざまな企業の課長の方にアンケートをとって、そこから寄せられた質問を元にしているので、実感のこもった内容が多い。回答も一問一答形式で冒頭に一文で答えが載せられた後、解説に入るという感じなので、その見出しの部分を読んでいくだけでも参考になる。

挙げられている質問は、部下や上司とのコミュニケーションをはじめとする管理職としての役割といったところが中心。例えばこんな感じ。
  • 「リーダー向きではない自分。人の上に立つ自信がありません」
  • 「課長とは具体的に何が仕事なのでしょう」
  • 「部下をもっとやる気にさせたい。どうしたらいいですか?」
  • 「優秀だけど一匹狼。そんな部下をうまくチームに引き込みたい」
  • 「雇用形態の異なる部下たちをどう束ねたらいいでしょうか?」
  • 「しばしば意見を変える上司にどう対処したらいい?」
さらに、自分自身の業務をスリム化・効率化するというところもあげられている。例えば、「自分の作業がいつも後回し。時間を確保する方法は?」等。これは、寄せられた悩みの中に「時間がない」「忙しい」という声が数多くあったことを受けている。これに対して著者は次のように述べている。

「多くの企業では、人員削減などを行った結果、会社全体で1人の社員がやるべき仕事は増大しています。とくに、課長などの管理職がプレーヤーを兼ねてしまえば、仕事の容量をオーバーするのは当然です。また、会社の仕事は、時間をかければかけるほど、必ず結果に結びつくというわけではありません。
 しかし、仕事を計画に進めて無駄を省くことで、必ず「余裕」は生まれます。余裕ができれば、部下やチームのマネジメントに頭と時間を費やすことができるのです」(p6)

また、こうした考え方だけではなく、具体的にどうしていけば良いかというところで、手帳の使い方、メールの処理方法、ファイルや書類の整理方法等、細かな仕事術のレベルの話も盛り込まれていて結構具体的なアドバイスが書かれていてすぐに実践できそうな内容も少なくない。

このあたりを通じて、まずは自分自身の仕事を効率化しつつ、チームの運営においては、業務の優先順位を明確にし、計画を立て、実行し、部下も含めて仕事も定時に終わらせるといった改革を通じて、残業時間が社内で最も多かった部署の残業を1年後にはほぼゼロにし、同時に成果も挙げたということ。そのあたりについてどういう考えでどう仕事を進めて行ったかが整理されている。

全体を通しては、マネジメントの細かいスキルと言うよりも「人間力」が問われてくるということも繰り返し述べられている。それだけに全人格をかけた仕事で大変やけどやりがいもあるということが厳しくも温かいメッセージでつづられている。管理職になりたてで悩んだ時、あるいは、少し経ってからでも振り返る時に読むと良さそうな一冊やと思った。



2013年7月28日日曜日

「デンマーク国民をつくった歴史教科書」を通じていろいろ考えた

デンマーク国民をつくった歴史教科書

「デンマーク国民をつくった歴史教科書」読了。原題は「子供に語るデンマークの歴史」で、20世紀の前半に半世紀ほどにわたって使われたデンマークの歴史の教科書を訳出した本。

知らない名前も多いので覚えるのは大変やけど、子供向けと言うこともあって結構読みやすい。抒情的な表現も多いけど、偏りを差し引いて読めばむしろイメージしやすかった。

デンマークの歴史とか知らんことばっかりやろうなーと思って読んでみて、実際に新鮮な話が多かったけど、一方まったくイメージのつかない話ばっかりでもなかった。よくよく考えると当たり前なんやけどヨーロッパに位置しているので、世界史で習うようなメジャーな話もからんでくる。

また、ヴァイキングの話はさすがに世界史の中でも習ってた気がするしわりといろんなところで題材としても扱われているのでなんかなじみがある感じがした。しかしまあ淡々と書かれてるけど、戦いに次ぐ戦いですごい流血の歴史の感じ。このあたりはヴァイキングを扱った漫画「ヴィランド・サガ」でも描かれているけど、ホントそんな感じやった。

あと別の角度の話では、周囲の国との関係っていうのは結構流動的やったんやなーっていうのも改めて思った。スウェーデンとは敵対している期間も多かったけど、逆にノルウェーとは統合されていたり同君連合を形成していたり。南部の方はドイツと統合を求める声があったりなかったり、勢力範囲も頻繁に変わったり。

現代からみると、今の国境線を軸にして考えがちやからこのあたりの話を聞くと意外に感じてしまったりするけど、そもそも今の国境線での体制っていうのは歴史の時間軸でみれば短い時間のものでしかないから、そのあたりはもっと長い時間軸で見ていかんとなーと思った。

決して大きな国でもなく、自国の資源が豊かではなくて他国との関係が重要な国であるところは日本とも通じる気がするので、また機会があったらいろいろ見てみたい国の1つやなーと感じた一冊やった。

2013年7月26日金曜日

「産科が危ない 医療崩壊の現場から」これからの日本の妊娠・出産のあり方を考えさせられる一冊

産科が危ない 医療崩壊の現場から (角川oneテーマ21)

日本産科婦人科学会の理事長を務めた方が、妊娠から出産までの一連の医療に関する医療についての現状、問題点、それに対してどう取り組んできたかを整理した本。産科の訴訟件数は外科の4倍、内科の8倍で、リスクを恐れて産科医になる人が激減しているという話は知らなかった…

著者の方は2007年から2011年にかけて理事長を務められてきたということで、最近の状況までフォローされている。構造的な問題については、産科医の慢性的な不足、過酷な勤務体制、地域格差といったあたりについて産科医療の現状が整理されている。

問題に関する象徴的な事件としてとりあげられているのが、福島県立大野病院で、前置胎盤・癒着胎盤という疾患で帝王切開を受けた女性が死亡した事故で、その医療行為が業務上過失致死に問われたこと。この事件を通じて、執刀医達が高い精神的な緊張や心配を抱えながら手術することになってしまい「萎縮医療」と呼ばれたとのこと。

この行為自体の妥当性については判断するのは難しいし、当事者の方の気持ち等の面でも難しいところはあると思うけど、この件は別としてもいずれにしても以下のポイントはその通りやと思う。

「医療事故の関係者に不条理な刑事罰を与えることは、事故の減少に繋がらないだけではなく、医師や看護師の労働意欲の減退と使命感の喪失を惹起する。その結果として、医療の質の低下と萎縮医療の万円、さらには完治という同じ目標に向かって共に病と闘うべき医療の提供者と受給者の間に不信をより一層募らせることになる。我が国の周産期医療にみられるように、産婦人科医師は産科医療からの撤退を余儀なくされ、最終的に国民に対して多大な不利益をもたらすことは紛れもない事実であるからである」(p37)

これを読んで、養老孟司さんが言っていた「ともだおれ」の話を思い出した。

「養老 建物を建てることは医者を選ぶことと実は同じなんですよ。

隈 すごく、似ていますね。

養老 何てったって命懸けだからね。だから医者選びで一番正しい態度は、医者と「ともだおれ」することなんです。任せるときは任せる。今の人はそれがないね。信用ってそのことなんですけどね。だって任せられれば、相手も結局は悪いようにしないんだよ。その場合、マイナスのことは起こってもしょうがない。壁にはクラックぐらい入るよ。夫婦げんかして茶碗を投げたって、ヒビは入るんだから。

隈 本当に向こうが「ともだおれ」する気持ちになって信頼してくれれば、こっちだって悪いことは絶対にできないです。建築を作ると、基本的にはすごく長い付き合いになります。20年経ったときに、施主と口もきかなくていい、なんて建築家は思いませんよ。僕は絶対にそうは思えないタイプです。10年後も20年後も仲良くいたい。そういう気持ちにお互いを持っていくということが、ある意味、建築家の技みたいなところもあります。建築家だってデザインだけできればいいわけじゃなくて、「ともだおれ」関係に相手を持っていけるかどうかなんです。それが実はお互いにとつて大事なんですね。そうしないと実際にはいい建築なんかできません。

養老 さっきから繰り返し隈さんと僕が言っている「サラリーマン性」というのは、その「ともだおれ」を否定するんだよ。医者の世界に保険の点数制度が導入されたとき、われわれとしては同じような問題が起きたんです。腕のいい医者だろうが、悪い医者だろうが、治療点数は同じだという、こんなバカな話があるか、というのが武見太郎(日本医師会会長、世界医師会会長を歴任。1983年没)の言い分だったんだけど、僕はよく分かりましたね。」
(「日本人はどう住まうべきか」p79-80)

医療に限らないと思うけど、絶対とか完璧っていうのは基本的にはない。そして、妊娠や出産というのも、よく知れば知るほど、本当に奇跡みたいなものの連続やと感じる。絶対とか完璧を求めてしまうことによって良い意味での「ともだおれ」やWin-Winができなくなって、Lose-Loseに向かっちゃうんやないかとも思う。

そして、以下の話も印象に残った。

「産婦人科の民事訴訟が多い背景には、日本人の場合、「赤ちゃんは無事に生まれるのが当たり前」という意識が強いことがある。妊産婦の死亡率はアメリカに比べて3分の1という少なさである。赤ちゃんの死亡率も日本が一番低い。
 つまり、日本の周産期医療が素晴らしすぎるために、「赤ちゃんは無事に生まれるのが当たり前」という出産に対する安全神話ができてしまっているのである。だから、妊婦が死亡したり、死産だったりすると、なにか医療過誤があったのではないかと考えられてしまう。そのことが、民事訴訟の多さにつながっているのである。
 産婦人科医のたゆまぬ努力が、訴訟の多さを招いているというのはなんとも皮肉な話である」(p45)

こうした問題の現状や対応状況をみていくと、つくづくため息が出てしまう。と同時に、この状況で産科医療を支えて頂いている医療従事者の方に感謝の念が湧いてくる。

また、東日本大震災の時期も含んでおり、構造的な問題に加えて震災時の対応について具体的にどのようなことを考えて何を行ってきたがが時系列でも整理されている。

特に、放射性物質に関して妊婦の方や乳幼児の親御さんが安心できるようにするためには、学会としてどのようなメッセージを出していくべきか考えて打ち出していったこと、被災地の産科医療体制を支援するためにどのような体制を組んでいったか等も記されている。

その他にも高齢出産や代理出産、高度生殖医療に関する話題もカバーされており、産科医療の現状について知るには良い一冊やと感じた。もちろん、この本に書いてあることはポジショントークの部分もあるやろうからそのへんは差し引いて考える必要があるやろうけど、それでもなお。

これからの社会を考える上で、これから妊娠・出産を考えている方やその家族の方だけでなく、より多くの人に読んでもらえると良い一冊やないかなーと感じた。

2013年7月24日水曜日

「未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命」をどう考えるべきだったのか…

未完のファシズム: 「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

明治維新から昭和の敗戦に至るまでの日本の歴史について、「坂の上の雲」的な歴史観というか、以下のような見方に対してちょっと異議を唱えて違った角度からの見方を提示しようとしている内容。

「日本は明治に頑張って日露戦争でロシアを何とか破った。そのご褒美として比較的恵まれた大正時代を頂戴した。そこで呑気にできた。でも幸せは長く続かなかった。昭和初年の世界大恐慌で揺すぶられた。そのあとは明治ほどには上手に立ち回れなかった。浮足立つうちにタガがはずれて日米戦争にまで突っ込んでいった。そして滅びた」(p3)

明治政府の指導者はリーダーシップがあったけど、昭和に至ってはそのあたりが欠ける人ばかりになり破滅に向かっていった…みたいな整理は分かりやすいは分かりやすいけど、個人攻撃の罠に陥ってしまって構造的な理解を脇に追いやってしまう。

実際は、そもそも誰も力やリーダーシップを持てない形になっている。この点について著者は次のように述べている。

「実はいちばん悪いのは明治のシステム設計だったともいえるのです。明示がいちばん悪く、そのつけを構成が高く支払わされた。そう考えてもいい」(p224)

さらに、この本では特に、著者が思想史研究者ということもあってか、思想的な側面に焦点を当てている。主に日本陸軍を思想史的に分析。

単にリーダーシップに欠ける人や精神論を語る人ばっかりだったからという話ではそこで終わってしまう。そこで、この本では、なぜ「持たざる国」であることを認識しながらも精神力でカバーしなければならないという考えに至ったのかという点を、個々の軍人の思想的な背景を明らかにすることでもう少し深く掘り下げようとしている。

「持たざる国」であり、それを軍部の指導者層も十二分に認識していたにも関わらず、なぜ「持てる国」との戦いに至ったのか。なぜ、物資の不足を精神力で埋めようという発想に至ったのか。こうした問いへの1つの答えが提示されている。

具体的には、教科書やその他の歴史書でも取り上げられ方が他の点に比べて少ない、第一次世界大戦をとりあげて、それがどういうインパクトを日本の軍人の思想にもたらしたかを整理している。

むしろ精神論だけでは無理で物量戦が重要だという認識がされ、そうした認識にもとづいた対応がされたという面では、第一次世界大戦こそがターニングポイントだったということ。

しかしながら、苦悩はその後にやってきた。物量戦を行うには「持てる国」にならなければならない。しかし、「持てる国」になるためには時間がかかり、うかうかしていると、「持てる国」はさらに「持てる国」になってしまい、日本が「持てる国」になってもまた彼我の差は縮まらないままになってしまう。

そこで、大きく2つの考え方が生まれる。1つは、「持てる国」になるために、海外に進出して物資を得るための拠点を増やしていき、その上で戦っていこうとする考え方。もう1つは、「持てる国」になるまでの時間的猶予がない、それならば精神力でカバーするしかないという考え方。

このあたりが「皇道派」と「統制派」の違いにもからんできている。高校の時に読んだ教科書では「皇道派」と「統制派」の整理がいまいち分かりづらかったけど、この本の整理でもう少し分かりやすくなった気がする。

全体を通して、指導者のリーダーシップやビジョンの不足とかはあったとしても、なぜそうなったのか、なぜ彼らはそう考えたのかという背景を整理している。これを通じて、じゃあ自分ならどう考えるのかということを突きつけられている気がする一冊やった。

その他、長谷川如是閑の日本の伝統に関する話が印象に残った。

「如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に強烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならないときでも、日本の伝統にはないのだと主張します。
幕末維新は尊皇派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。いろいろな意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。常にぎくしゃくしながら進む。その結果、自ずとなるようになる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。無理に力ずくでまとめようとすればするほど、ひとつの主義主張で固めようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでばらばらになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、けっこう勝手なことをしている。そのくらいで丁度いいのだ。」(p215-216)

この見方がどのくらい妥当するかどうかはもう少し留保が必要な気もするけど、なんかでも「ああ…わかる…」っていう気もする。日本の会社運営とかもこんなような感じなのかもとも思ったり。

もしこれがある程度妥当するとすると、政治でもビジネスでもなんでも日本の組織において強力なリーダーシップみたいなものを追い求めること自体が幻想なのかもなとも思ったりもした(もちろん例外はあるにしても全体的な「伝統」としての話)。

それが良い悪いは別として、そういうことであるならば、それを前提として考えて対応していく方が建設的なのかなーとか、そういうことを考えさせられた。


2013年7月22日月曜日

独断と偏見による整理が逆に分かりやすい「日本近代史」(坂野潤治)

日本近代史 (ちくま新書)

1957年から1937年という、幕末明治維新期から太平洋戦争前までのくらいの80年間の歴史を、
改革→革命→建設→運用→再編→危機→崩壊
の区分に分けて整理した本。

「本書は筆者の独断と偏見で綴った日本近代80年の歴史である」と述べているように、著者のとらえ方をベースにしているので、それ自体には賛否両論あると思う。ただし、変に中立的・客観的という体で書かれたものよりもよっぽど面白く読みやすい。

教科書的に事実だけをつらつらと並べていっても、その背景やそれがどういう意味を当時持っていたのかということはつかみづらいけど、この本ではそのあたりが著者の視点から分かりやすく整理されている。

明治~大正~昭和の政治って日本史習った時に、政党の変遷とかが図示されていてもなお分かりづらいこともあって、イマイチよく分からんイメージがあったけど、この本を読んで概観として流れがなんとなくつかみやすくなった気がする。

もう1つ分かりやすさの要因としては構造的な整理がされていることもあるかも。
例えば、明治政府の構造としては、

「「強兵」を唱える者、「富国」を重視する者、「憲法」が必要だとする者、「議会」こそ重要だとする者たちが、時と状況によって「連合」を組んで政府を運営する「柔構造」の政府だった」

等と整理している。こういう構造的な整理がされているので、全体像をつかみやすい。

1つ細かいところで意外だったのが原敬の話。大正デモクラシーの象徴のように語られるけど、実は普通選挙にも二大政党制にも反対していたという話。このへんはイメージで先入観があったなー。

しかし昨日の選挙結果をみてもいろいろ思うところはあるけども、こういう歴史にふり返ってみてもあんまりその頃とやってること変わらん気がする…進歩しているのかどうかっていうところはなんとも言えんけど、少しでも学んで同じ轍は踏まないようにしていかんとやな…と思いながら振り返った一冊やった。

2013年7月20日土曜日

「日本人はどう住まうべきか?」を通じて日本人や生き方について考えられる一冊

日本人はどう住まうべきか?

隈研吾さんと養老孟司さんの対談集。元々は日経BPの連載。「住まう」ということがメインテーマで、建築や都市計画などの話がメインやけど、住まうということを通じた日本人論や、人としてどう生きていくべきかという人生論までつながる内容。

連載記事も読んでたけど、連載の時には読んでなかったか書いてなかったような話もたくさんあって面白かった。

■分からないものは無視してしまう
印象に残ったのが津波対策の話。隈さんによると、建築業界では津波に対しては「ノーマーク」だったという。耐震設計に関しては世界トップレベルにあるほど研究も煤寝入るけど、津波については部会も無かったという。

「どうしてそういう空白があったかというと、津波は何メートルになるか予想できないもので、どういう方向から来て、どういうふうに流れるのかも分かりませんから、来ることは分かっていても、何も考えなかったのではないか、と。驚くべき無防備の状態ですよね。無意識のうちに、コントロールできるものと、コントロールできないものとの間に線を引いていたとしか思えない。まさしく養老先生がベストセラーに書かれた「バカの壁」ではないかと」(p15)

これに対して、ビジネス書とか思考術とかの話で、コントロールできることに集中しましょうという話があるのを思い出した。思考術としてはその方がストレスも減るし生産性が上がるのかとは思うけど、コントロールできないものとして無意識においやったものの中に重要なものが入っていてそこが抜け落ちてしまう危険性もあるのかなと感じた。


■「だましだまし」進める知恵
もう1つ印象に残ったのが「だましだまし」という発想。

隈さんの話。
「震災後すぐは、どうしても議論が過激なところに行ってしまう。例えば市街地は全部、高台に作り直せ、とか。一律になんとかしろ、という方向に振れがちなんです。そのことに僕は危うさを感じますね。 関東大震災の後の異常心理が、日本人を太平洋戦争まで持っていった、ということを、養老先生が池田清彦先生(早稲田大学教授・生物学評論家)との対談でお話しになっていましたが、まさしく今も震災後の特別心理みたいなものが極端に振れています。僕たちはもともと非常に不安定な国土に住んでいるからこそ、「だましだまし」の手法を磨いていくしかないんだけど。
(中略)
「だましだまし」で復興を地道にやっていけば、その過程で新しい科学や技術が使えるようになり、一歩ずつ補強されていく。そういう方法論で、この危なっかしい場所を現実的に住みこなしていくしかないんですけどね」
(p32)

別の所では、サラリーマン化というキーワードが出ていたけど、効率を求めて画一化し、完璧主義になってきたことで、現場の樣子を見ながらいい意味で適当に「だましだまし」やっていくことができなくなっているという話。

ルールや理想はそれはそれであるとしても、それを突き詰めると現場との齟齬が必ず起きる。それをうまく調整しながらやっていきましょうという発想はプラクティカルやなーと思った。


■都市という発明品とコンクリート神話
また、都市の話とコンクリートの話はそういう発想がなかったので新鮮だった。確かにななと思った。

都市についての話が以下。

「隈 もう、まったく変わってきます。都市の作り方は、昔からみんな同じようなものだと思われがちですが、実は現在、僕たちが知っている都市というのは、それこそアメリカが20世紀の最初に自動車と一体となって作ったものですから、歴史的には実に短期的なもので、まだ検証が十分にされていない不完全な発明品なんです。

養老 そうですね。石油エネルギーを背景にした、たかだかこの1世紀ぐらいのものです。」
(p113)

コンクリートは信用で成り立っているという隈さんの話が以下。

「逆説的ですが、中身が見えなくて分からないからこそ、強度を連想させる何かがある。生活の危うさとか、近代の核家族の頼りなさのようなものを支えてあまりある強さを感じるのかもしれません。そういう何かにすがりたいという人間の弱い心理に付け込んだ、詐欺のようなところがコンクリートにはありますね。石やレンガの積み方はひと目で分かりますから、こちらは欺きようがない世界です。でもコンクリートは完全に密実なる一体で、壊しようがなく、圧倒的強度があるようにみんな思い込んでしまう。実はその中はボロボロかもしれないのに」(p43)

こういうことを考えると都市でコンクリートの建物の中で暮らしていくあり方について、考えさせられた。それが悪いということではなくて、上記のような背景を押さえた上で暮らす方が良いのかなと。


他にもたくさん面白い論点があって、ウィットが効いていて面白い対談集やった。いろんな人に薦めてみたいと思える一冊やった。

2013年7月13日土曜日

「学級崩壊立て直し請負人」の取り組みは子どもだけでなく大人のコミュニケーションも立て直すことにつながる気がする

学級崩壊立て直し請負人: 大人と子どもで取り組む「言葉」教育革命

 NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演されていた、北九州市の小学校の先生の本。先日あるイベントで直接講演を聞く機会があって、話にとても感銘を受けて、その場で買った。

具体的かつ想いの詰まった内容で一気にひき込まれて読んだ。教育や子育てに関心のある方にはオススメしたい一冊。あとは、ビジネスの現場でのコミュニケーションに照らしても考えさせられることも多かった。


■教育現場の状況の非難や摘発ではない
内容としては、学級崩壊というシビアな現場での経験を元にした本やけど、本書の目的は、文句を言ったり嘆いたりすることではない。冒頭でも「教育現場の状況の非難や摘発にはありません」(p15)と述べられている。

子どもが普段長い時間を過ごす学級の場を立て直すために、現実を認識し、変えていくことの重要性が、具体的な例を通して語られている。


■言葉の力
方法論として一貫して大事にされているのが「言葉」。親が「バカ」「ダメ」と言ったネガティブな言葉を多用し、子どももそういう言葉を使ってコミュニケーションをとることで、先生や友達との関係性がうまく築けずに学級崩壊やいじめといった問題につながっている。

そこで、価値を感じられるようなポジティブな言葉によって子供のコミュニケーション能力を高め、考えや行動をプラスに導いていき、生徒同士や先生との関係性を変えて教室を変えていく。

具体的には、「ほめ言葉のシャワー」といって、帰りのホームルームで日直の子に対して、周りの生徒が次々に褒め言葉をかけていく活動や、先生と一対一で対話するための「成長ノート」という取り組みを行っている。

「ほめ言葉のシャワー」をやりだすと、褒められた子が今まで褒められたことがないと言って泣き出したりもするらしい。いかにポジティブな言葉が子どもに対してかけられていないかということを象徴している…


■自己紹介すらまともにできない子ども達
講演でも語られていたけど、著者に方が特に「コミュニケーション教育」に取り組むきっかけになったエピソードが驚きやった。年度の最初にクラスで自己紹介をさせたら、それだけで泣く生徒がたくさん出てきたという。自己紹介するだけでクラスメイトの目が怖くて泣く。いわんやクラスでのコミュニケーションも十分にとれない。

自己紹介と最初出てきた時は最初さらっと読んでたけど、これが結構奥が深い。

「自己紹介が必要な場、というのは自分のコミュニティとは違う場所に関わるということ。結局は自分の世界をどんどん広げていっているということなんです。公の世界にね」(p154)

こういう経験を積み重ねていれば自分の可能性が広がって自信も持てる。しかし、そういう経験を積んでいないと、
「六年一組の〇〇です。よろしくお願いします」
といったテンプレ的なことしか話せず、そこからの広がりが生まれにくい。

これって子どもの話として出てたけど、大人も一緒やよなーと思った…


■言葉で変わる
そうした中で、先述したような取り組みを、一気にではなく生徒達の様子を見ながら順次取り入れていき、次第に子供たちが変わっていく様子が具体的な事例を元に紹介されている。自己紹介もできなかったり、ネガティブな言葉をたくさん発していたり、まともに席にもついておられんかったような子供が、年度の最後の方では前向きに自分のことを堂々と表現していく過程を読むと結構ウルッと来る。

例えば、年度末に「なぜ、6年1組は話し合いが成立するのか」というテーマで成長ノートを書かせた時の答え。

「うらんだりをあまりしなくなったことです。私は反対意見などを出されたら前までは『なんあんだあいつー』みたいな考えたあったと思います。でも、今の自分は、『あっそっか……』とか、『うーん、……。違う気がするなぁ』みたいな考え方が持てるようになりました。だから私はうらんだりしないことによってみんな『あったかい話し合い』ができていると思います」(p112)

人の人格と意見を分離して、意見についてきちんと考えていっているけど、これは大人でもなかなかできてないと思う。会議とかでも紛糾しちゃったり根にもったりとか…子どもの教育の話なんやけど、結局は大人、そして日本社会の話なんやよなーと強く思った。


■「大人全体」の問題
その点と関連して、以下の点が強く印象に残った。

「親の情報不足が、余裕のなさを招く。だから、言葉の力がない。褒める力もない。
 言葉の力で公に進む。そして、いい言葉を獲得していくことが、人生を豊かにすることになるんだ。まずはそういう認識が大人にないものだから、ただ子どもに怒るだけになる。あるいは放任する。スタートはやっぱり、親。いや親を含めた"大人全体"ですよね」(p42)

これから子どもを育てていく親としても、一人の「大人」としても、「言葉の力」を改めて認識し、言葉を大切にして自分の周りからでもプラスの方向のコミュニケーションの循環を起こしていきたいと感じる一冊やった。

2013年7月1日月曜日

「陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝」に学ぶ克己堅忍の意志力と陰徳を積むということ

陰徳を積む―銀行王・安田善次郎伝  

安田財閥(現芙蓉グループ)の創始者、安田善次郎さんの生涯についての本。今や「知る人ぞ知る人物になってしまっている」(p307)けど、「明治維新政府が順調に国家経営を進めていけたのは、この安田善次郎という実に頼りになる金融界の大立者の存在があったればこそであったと言える」ほどの方。

自分も安田講堂の話で名前だけは知っていたけど、具体的にどういう方だったのかはこれまであまり知らなかった。この本を読んで、こうした先達がいたのかと目を見開かされた感じ。そういう意味では「海賊と呼ばれた男」とも通じる部分がある(ただ、個人的にはあっちの方が小説というスタイルもあってか本としては面白かったけど)。

全体としては、本書のタイトルにあるような「陰徳」についての話がメインテーマになっていくのかなとも思ったけど、それはわりと一部の話やった。どちらかというと安田善次郎さんの生涯を、既存の文献をもとに丁寧にまとめ直している感じ。


■克己堅忍の意志力
本書の中で、安田善次郎さん本人が自分の人生を振り返って述べた次の言葉が紹介されている。

「私にはなんら人に勝れた学問もない。才知もない。技能もないものではあるけれども、ただ克己堅忍の意志力を修養した一点においては、決して人に負けないと信じている。富山の田舎から飛び出して、一個の小僧として奉公し、承認として身を立てて今日に至るまでの六十余年の奮闘は、これを一言に約めれば克己堅忍の意志力を修養するための努力に外ならぬのである」(p43)

本書では全体を通じてこういう過程が描かれている。これを受けて、著者は次のように述べている。

「"克己堅忍"という言葉は最近はやらない"根性系精神論"の代表だが、そんな現代人の失ってしまった"意志の力"が、安田善次郎の中には満ち溢れている」(p43)

確かにずっと読んでいくとこの意志の力はすごい。よくもこれだけ修養できるなーという感じ。あんまり真似できそうにないけど…(^^;)


■地道な積み上げ
上の克己堅忍の話もそうやけど、銀行という業界の特性上なのか、コツコツとやっていくという姿勢。

「最近の起業家は収益性の高いビジネスモデルの構築にまず力を注ぐが、善次郎はもちろん戦前までの商人は、客あしらいにもっとも力を入れた。客の気持ちになり、彼らの欲しているものを提供し、彼らに気持ち良く帰ってもらうことで贔屓の客を増やしていく。それこそが商売の基本(いわゆる"前垂れ商法")であり、善次郎も地道にその技術をみがいた」(p40)

起業家をいっしょくたにしすぎだと思うし、収益性の高いビジネスモデルの構築が悪いことかのように書かれていてそこは違和感があるけど、この話自体は印象に残った。


■陰徳を積む
タイトルにある陰徳については、多くはないものの所々でエピソードが紹介されている。

例えば、奉公先で履き物を誰に言われなくても自然にそろえたとか、旅先のお寺で和尚さんに説教してもらったことをずっと覚えていて成功してからお礼を言いに立ち寄るとか、初期の頃に勤めてくれた社員の命日に墓参を欠かさなかったとか。。

大本は、父親からそういう考え方を叩き込まれたことがベースにあったらしい。そこのあたりの話ももう少し詳しく読んでみたかったけど、そのへんはさらっと。しかし改めて幼少期の教育っていうのは後々まで影響するんやなーと思った。

上のあたりはわりと細かなレベルのエピソードやけど、自社が発展していくにしたがって、貢献の仕方のスケールも大きくなっていく。特に政府系で引き受け手がないような両替業務とか国債の引き受けとか、各種銀行の設立のアドバイスにのったり、再建に協力したりといったことを通じて日本の金融を支えていく。もちろん商売としてっていうところもあるやろうけど、それと同時に日本の役に立つというところもあわせて考えられていた。

こうした想いは当時の世間からはあまり理解されなかったようで世間からは批判も多かったよう。当初は断っていたものを無理にお願いされて引き受けて頑張ったのに、儲けのためにやったと批判されたり…

しかし、無理に自分の功績をアピールしようとしなかったことが仇となり、最終的にはテロの犠牲になってしまう…これも陰徳故か。著者も次のように述べている。

「真の姿が世間に伝わらなかったのには理由がある。陰徳の人であったからだ。そのため、危機が過ぎ去るとすぐに恩を忘れられ、今度は逆に金の亡者だとののしられた」(p306)

後藤新平をはじめ、安田さんの想いやそれまでの貢献を理解していた人たちからは惜しい人を亡くしてしまったと嘆かれたという。

人物評価についてはもちろん、人によって見方は異なるので賛否両論あるとは思うけど、本書のトーンは基本的には肯定的なので、光の側面に焦点を当てている書き方。


■社員は手足?
その中で1つ気になったのが人材についての話。

「私は元来自分で計画し、自分で実行することを主義としておる者だ。すなわち自分から司令官となり、かつ参謀長になるのであるから、トンと幕僚の必要を感じたことがなかった。とはいえ何事を成すにも、唯ひとりでは仕事が出来るものではないのである。相当に部下を要するのは勿論であるが、それらの人はみな私の命ずることには、絶対に服従して私の意志を確実に行うものたるに限るのである。一言にて申せば、まったく己れを殺して私の手足となり、しかして私の為に働くものでなければならぬ」(p170)

すごい人やと思うしけど、一緒に働くには大変やったかもなー…


全体を通して、「海賊と呼ばれた男」の方が感動したしぐいぐいひき込まれて読んだ気がする。淡々としている感じの書き方なのか、構成の問題なのかとも思ってけど、上のようなところも気になったのもあるかもなーと思った。

ただ、たまたま同じ時期に読んだから比べちゃっただけで本来は別々とは思うけど、こちらはこちらでまた別の角度から日本を支えていった事業家の軌跡を学べる一冊やった。