2013年7月24日水曜日

「未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命」をどう考えるべきだったのか…

未完のファシズム: 「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

明治維新から昭和の敗戦に至るまでの日本の歴史について、「坂の上の雲」的な歴史観というか、以下のような見方に対してちょっと異議を唱えて違った角度からの見方を提示しようとしている内容。

「日本は明治に頑張って日露戦争でロシアを何とか破った。そのご褒美として比較的恵まれた大正時代を頂戴した。そこで呑気にできた。でも幸せは長く続かなかった。昭和初年の世界大恐慌で揺すぶられた。そのあとは明治ほどには上手に立ち回れなかった。浮足立つうちにタガがはずれて日米戦争にまで突っ込んでいった。そして滅びた」(p3)

明治政府の指導者はリーダーシップがあったけど、昭和に至ってはそのあたりが欠ける人ばかりになり破滅に向かっていった…みたいな整理は分かりやすいは分かりやすいけど、個人攻撃の罠に陥ってしまって構造的な理解を脇に追いやってしまう。

実際は、そもそも誰も力やリーダーシップを持てない形になっている。この点について著者は次のように述べている。

「実はいちばん悪いのは明治のシステム設計だったともいえるのです。明示がいちばん悪く、そのつけを構成が高く支払わされた。そう考えてもいい」(p224)

さらに、この本では特に、著者が思想史研究者ということもあってか、思想的な側面に焦点を当てている。主に日本陸軍を思想史的に分析。

単にリーダーシップに欠ける人や精神論を語る人ばっかりだったからという話ではそこで終わってしまう。そこで、この本では、なぜ「持たざる国」であることを認識しながらも精神力でカバーしなければならないという考えに至ったのかという点を、個々の軍人の思想的な背景を明らかにすることでもう少し深く掘り下げようとしている。

「持たざる国」であり、それを軍部の指導者層も十二分に認識していたにも関わらず、なぜ「持てる国」との戦いに至ったのか。なぜ、物資の不足を精神力で埋めようという発想に至ったのか。こうした問いへの1つの答えが提示されている。

具体的には、教科書やその他の歴史書でも取り上げられ方が他の点に比べて少ない、第一次世界大戦をとりあげて、それがどういうインパクトを日本の軍人の思想にもたらしたかを整理している。

むしろ精神論だけでは無理で物量戦が重要だという認識がされ、そうした認識にもとづいた対応がされたという面では、第一次世界大戦こそがターニングポイントだったということ。

しかしながら、苦悩はその後にやってきた。物量戦を行うには「持てる国」にならなければならない。しかし、「持てる国」になるためには時間がかかり、うかうかしていると、「持てる国」はさらに「持てる国」になってしまい、日本が「持てる国」になってもまた彼我の差は縮まらないままになってしまう。

そこで、大きく2つの考え方が生まれる。1つは、「持てる国」になるために、海外に進出して物資を得るための拠点を増やしていき、その上で戦っていこうとする考え方。もう1つは、「持てる国」になるまでの時間的猶予がない、それならば精神力でカバーするしかないという考え方。

このあたりが「皇道派」と「統制派」の違いにもからんできている。高校の時に読んだ教科書では「皇道派」と「統制派」の整理がいまいち分かりづらかったけど、この本の整理でもう少し分かりやすくなった気がする。

全体を通して、指導者のリーダーシップやビジョンの不足とかはあったとしても、なぜそうなったのか、なぜ彼らはそう考えたのかという背景を整理している。これを通じて、じゃあ自分ならどう考えるのかということを突きつけられている気がする一冊やった。

その他、長谷川如是閑の日本の伝統に関する話が印象に残った。

「如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に強烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならないときでも、日本の伝統にはないのだと主張します。
幕末維新は尊皇派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。いろいろな意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。常にぎくしゃくしながら進む。その結果、自ずとなるようになる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。無理に力ずくでまとめようとすればするほど、ひとつの主義主張で固めようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでばらばらになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、けっこう勝手なことをしている。そのくらいで丁度いいのだ。」(p215-216)

この見方がどのくらい妥当するかどうかはもう少し留保が必要な気もするけど、なんかでも「ああ…わかる…」っていう気もする。日本の会社運営とかもこんなような感じなのかもとも思ったり。

もしこれがある程度妥当するとすると、政治でもビジネスでもなんでも日本の組織において強力なリーダーシップみたいなものを追い求めること自体が幻想なのかもなとも思ったりもした(もちろん例外はあるにしても全体的な「伝統」としての話)。

それが良い悪いは別として、そういうことであるならば、それを前提として考えて対応していく方が建設的なのかなーとか、そういうことを考えさせられた。


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