2013年1月30日水曜日

「ウェルチ GEを最強企業に変えた伝説のCEO」で仕事観を学ぶ

ウェルチ―GEを最強企業に変えた伝説のCEO

言わずと知れたGE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOを務め、偉大な経営者として名前が挙がることも多いジャック・ウェルチについての本。

著者は既にGEの本を書いていてこの本が3冊目。GEの関係者やジャック・ウェルチ本人に取材し、社外の人間として始めてGEのリーダーシップ研究所を見学したらしい。

内容の方は、GEの経営とかウェルチの人間像とかを細かく描くというよりは、ウェルチの経営思想を全体的に紹介している感じ。

■ウェルチの考え方
それぞれの章のタイトルが、ウェルチの考え方のエッセンスを表している。
具体的にはこんな感じ。

  • 変化に前向きに取り組め、恐れるな
  • リーダーになれ、管理はするな
  • 価値観を共有する管理者の育成
  • 現実を直祝し、果敢に行動せよ
  • 単純で一貫したメッセージを徹底して繰り返せ
  • ナンバーワンかナンバーツーに、ただし土俵を小さくするな
  • 飛躍的成長をめざせ
  • 再建か閉鎖か売却-NBCの蘇生
  • 数字にこだわるな
  • 学習する文化を創ろう
  • 管理者を排除し官僚主義を排斥せよ
  • 小さな会社のように身軽で機敏に動く
  • 境界を取り払え
  • 三つの秘密-スピード、単純さ、自信
  • 全員の頭脳を便えー全員を巻き込め
  • 「ボスの要素」をつまみ出せ
  • 自由な発言ができる仕事の環境を
  • 星に届くまでストレッチせよ
  • サービス事業を成長させよう―それが未来の潮流だ
  • 金融サービスに利益を求めよう
  • 世界中の頭脳を集め、多様性のある世界的チームを作る
  • 品質の向上、コストとスピードの追求が競争力
  • 品質向上は社員一人一人の役割
  • 品質向上へ測定、分析、改善、管理
1つ1つはその通りやと思うし、言われてみれば当たり前なんやけど、それをあの規模の企業で徹底させるっていうのがすごい。


■単純さ
キーワードはいろいろあるけど、繰り返し言われているのが、上の中にもあった、スピード、単純さ、自信。特に単純さっていうのは何度も出てくる。

「単純さということについて言えば、ジャック・ウェルチは好んで、ビジネスとは単純なものだと公言している。勇気を持って単純にするよう社員に求めている。つまり仕事を実際以上に難しくするな、というのがウェルチの要求なのだ」(p209-210)

別の言い方では、ビジネスはロケットサイエンスではないと言っている。特に、大きな規模の企業やから、放っておくとどんどん階層化して複雑化していくんでこれを強調しているのかなと思う。

階層化に関して言えば、できるだけ階層を少なくするようにしているとのこと。「ディレイヤリング」という言い方で、階層をとりはらう活動も行っていたということ。

シンプルにっていうのは、これもまた分かっていても保っていくのは難しい。だからこそ繰り返し言うんやろうなー。


■数字はビジョンではない
もう1つ印象に残ったのが、「数字はビジョンではない」という言葉。

「数字はビジョンではない。数字は結果だ。我々がいつも言っているのは、もし事業を展開する上での指標が三つあるとすれば、その三つとは社員の満足度、顧客の満足度、そしてキャッシュフローだ。もし現金を節目節目にきちんと手許に残せばあとのことはすべてうまくいくだろう。
 顧客満足度が高ければ、シェア獲得につながる。社員の満足度が高ければ、生産性の向上が見込める。現金があれば、すべてうまくいくはずだ」(p137-138)

これに関連して、細かい目標は設定しないという話も語られている。予算づくりに何時間も時間をかけたり、労力を費やしたりして消耗しても仕方ない。

シンプルに、スピード感を保っていくということと、細かい目標にとらわれずに大きなビジョンを設定していくことが重要ということはつながっている気もする。

もちろん、全く目標を設定しないわけではないし、ストレッチするような目標を設定することは大事やと言われているけど、細かいことに労力を割き過ぎないということやと思う。

別の言い方では次のように言い方をしている。

「小数点以下の数字はナンセンスだ。夢にはわくわくさせられるが、小数点以下の数字には興奮しない。進歩が認められた社員に対しては褒賞を与えるが、今年の細部の計画についての未達成に対しては断罪しないというやり方でない限り、うまく行くわけはない」(p258)


細かな具体的な施策事例とかテクニックとかが学べたりするような内容ではないけど、仕事観として参考になる考え方がいろいろ詰まった一冊やった。

2013年1月28日月曜日

「事実に基づいた経営 なぜ「当たり前」ができないのか?」という問いの重要性を認識させられる一冊

事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか?

特にビジネスにおいて、一般的に「うまくいくはず」と信じられていて多くの企業で実施されている仕組みやその背景となる考え方について、必ずしも常に正しいわけではないということを示そうとしている本。

例えば、インセンティブや戦略を絶対視するような考え方に疑問を投げかけている。これまでの他の研究成果をたくさん参照しながら、具体的な事例も紹介しているのでそのあたりが面白い。

■半分だけ正しい常識
最初に概要を説明した後、個々のトピックについて1章ずつ割いて取り上げている。取り上げられているのは結構なじみが多く興味深いトピックが多い。

  • 仕事とプライベートは根本的に違うのか?違うべきか?
  • 業績の良い会社には優秀な人材がいる?
  • 金銭的インセンティブは会社の業績を上げるか?
  • 戦略がすべて?
  • 変わるか、さもなくば死ぬか?
  • 偉大なリーダーは組織を完全に掌握しているか?

他社がやっていることやよく言われることでも、「事実」を元にみていけば違った面が見えるのに、うまくいくと信じて盲目的に取り入れて失敗しているという主張。

ただ、この本自体は、通常言われるような見方に対して反するような見方を提示しているけど、そっちが完全に正しいと言っている訳ではない。

著者は「半分だけ正しい常識」という表現を使っているけど、全部正しい訳でも全部間違っているわけでもないという見方。


■リーダーシップがすべて?
トピックの中の1つで興味深かったのがリーダーシップの話。経営が成功するにしても失敗するにしてもリーダーの功罪が大きく取り上げられるけど果たして本当にそれだけなのかという見方。

ある学会誌ではリーダーシップの重要度や重要となるタイミングについて論争が続いているけど、細かい違いは別にするとほとんどの研究者は、一般的にはリーダーシップと業績の関係はそれほど大きくないという見解を持っているという。

もちろん関係が大きい時もあるけれど、ほとんど関係ない時もあるという点は一致しているらしい。これに関係して、30年以上も前にジェラード・サランシックという人が行った実験の話が紹介されていた。

「ある人が、線路を走るおもちゃの列車を走らせてくれるように頼まれた。観客は、その人が列車を走らせるのを見ていた。どちらにも知られないように、実験者が列車のパワーを上げたり下げたりして、列車のスピードが急に上がったり下がったりして、脱線が起こった。操縦者はすぐに自分ではどうしようもなかったことがわかった。観客は別の見方をした。観客には、走らせていた人のコントロール外でスピードが上がったり下がったりするのはわからなかった。その代わり、操縦者が列車を脱線させるのは見えた。操縦者ははっきりと見えたので、観客は列車の脱線を、実際にその原因となった見えない要因のせいではなく、操縦者の努力と能力のせいだとしたのである。これとちょうど同じように、企業を見ると企業を率いる人が見える。人の行動や企業の業績に影響する障害は見えない。だから、個人(リーダー)の行動が日に見えるということが、われわれの物事の解釈を左右するのである」(p272)

ここで言っているのはリーダーシップが全く関係ないということではなく、リーダーシップですべて決まるという見方はちょっと考えなおした方がいいんじゃないですか?ということやと思う。

リーダーシップは大事は大事やと思うけど、リーダーのもとで仕事をしているメンバーの頑張りもあるし、その他組織内外の要因もいくらでもある。

GEでウェルチ時代に大きなビジネスを率いていたスペンサー・クラークという人から著者が聞いたジョーク。

「ジャックはよくやった。でも、ジャックがCEOになる前も会社は一〇〇年以上続いているし、彼には助けてくれる七万人以上の部下がいたんだってことを、みんな忘れているよ」(p273)

これはその通りやと思う。ジャック・ウェルチは偉大な経営者やと思うけど、組織を動かして成功に導いたのは彼一人だけがやったことではないと思う。そういったことの1つ1つを無視してしまうと、本質が見えなくなるので注意していきたい。


■ズバッとした答えを求めるのではなく、バランスよく見ることの重要性
「半分だけ正しい」っていう表現からして、奥歯にものが挟まったような感じでもやっとするところもあり、ズバッとこうすればいい!という答えが提示されるような本ではない。

でもそれだけに、見方の幅を広げるという意味では良いと思った。翻訳された清水勝彦さんもあとがきで次のように述べている。

「「プラスとマイナスの両面を見る」ということは、意外に人気がありません。むしろ「こうすれば必ず成功する」「これがイノベーションのカギだ」「成功の秘訣はここにあった」という、プラス面ばかりを取り上げたビジネス書が毎年たくさん出ますし、またそういう書籍が売れているという現実があります」(p336)

これが答えだ!って言い切る本はたくさんあるけど、現実問題、それだけをやって何でもかんでもうまくいくっていうものではない。改めて、事実を常におさえることを意識し、事実を起点として考えていくことの大事さを感じさせられた。


■当たり前のことを当たり前にやる
このあたりの話は別に当たり前と言えば当たり前の話。ただ、その当たり前のことがなかなかできない。

この点に関しても、清水勝彦さんの言葉が印象に残った。

「「当たり前のこと」を愚直にすることが、差別化の第一歩だということです。「当たり前のこと」を馬鹿にして、それほど真剣に取り組む企業がなければ、「当たり前のこと」をするだけで立派な差別化になります。プロの選手は相手ピッチャーの失投を見逃さないといいますが、さまざまなクセ球を打つ「新しいテクニック」を探すのではなく、事実をしっかり見極め、チャンスを見逃さない基本のカこそが、業績を維持し続ける大切な点です。
 そしてもう一つは、こうした「当たり前のこと」を愚直に行うことは、何となくつまらないのではないか、ワクワクしないのではないかと思っているとすれば、実は全く反対だということです。「新しい」「成功の秘訣」をビジネス書やコンサルタントに求めることは、本当の意味での経営の醍醐味を放棄しているのです。事実を集め、「業界の常識」に挑戦し、そこで成功を勝ち取るほうが、どこかに書いてあったり、誰かの言ったとおりにしてうまくいくよりも、何十倍気持ち良いかしれません」(p2\338-339)


事実に基づく、事実を見るっていうのは言われれば当たり前なんやけど、その大事さと難しさを改めて感じさせてくれる一冊やった。

2013年1月26日土曜日

「医療防衛」―「なぜ日本医師会は闘うのか」が分かる一冊

医療防衛 なぜ日本医師会は闘うのか (角川oneテーマ)

「日本医師会は、開業医の利益団体ではない」という序文から始まる。

「チーム・バチスタの栄光」のシリーズの著者であり医師でもある海堂尊さんが、日本医師会の常任理事である今村聡さんへの取材を元に対話風に医療の現状について描いている。

できるだけ噛み砕いて説明したり、小説の登場人物を登場させたりと、読みやすくするような工夫がされている。それでもテーマが大きく、複雑なものもあるため、読むのに頭使うところも多い。

ただ、これから医療含む社会保障について考えていく上で、読んでおくと良い一冊ではあるなと思った。


■日本医師会は、開業医の利益団体ではない
では、日本医師会は何の組織かというと、「医師の代表機関」。そして、これは広く一般市民のためのものでもあるということが述べられている。

「医師を代表するわけだから、医療を守るための民間団体でもある。
 医療を守るということはすなわち、市民社会を守るということに等しい。
 そうしたことを、ひとりでも多くの市民に理解してもらいたい」
(p3)

海堂さんはまた次のようにも述べている

「いいものは、いい。であれば、そのことをできるだけ多くの人に知ってもらいたい。そうすれば日本の未来はその分だけ明るくなる」(p4)

読み進めていくとこうした想いが伝わってくる。海堂さん自身も、日本医師会にも闇の部分があるはずと述べているが、それでも現状はいい部分にほとんど光が当たっていない。

そこで、ヨイショ本を作ったと批判されても構わないという想いの元、この本を作られたということ。確かに読み進めていくと、日本医師会へのイメージが全然変わってくる。

自分自身もなんとなく政治的な団体のイメージを持っていたけど、そもそもは医師の代表機関。構成も、勤務医と開業医が半々。この時点で開業医の利益団体というイメージからずれる。

また、学術的な活動も行っていて、日本医学会は日本医師会の一部門として位置づけされていて、シンクタンク的な機能も持っている。他にも医学生の支援なども行っている。

その他、東日本大震災関連でも積極的に活動していて、合意書についての問題提起も行なったということ。具体的には、合意書147ページに『サインしたら、あと一切何も言いません』という文言が入っているのはとんでもないと指摘。

これがヤフー等でも配信され話題になったけど、日本医師会内のシンクタンクに専属職員として弁護士が2人いるからできたということ。この2人が徹底的に書類に目を通して問題点を指摘。

厳密に言うと直接的に医療に関わるところではないが、大きな社会問題は最終的に医療問題に関わってくること、また、他にやれるところがないということでそういった対応を実施したということ。

また、積み立てておいた災害対策積立金の中からすぐに救助に行く全国の医師会に支援金の形で4200万円を拠出。被災県の県医師会にも災害発生後まもなく9000万円出していて、義捐金や寄付にも積極的に対応。

さらに、構想段階だった災害医療チームを急きょ実現させ、自給自足を原則として医療チームを現地に派遣。平成23年11月18日時点で6841名の人を派遣。日赤は業務という位置づけに対し、こちらはボランティア。

日赤の活動も価値があるとしても、こういった事実はあまり報じられないということ。最初にも海堂さんが言ってたように、闇の部分もあるやろうけど、それにしてもイメージが偏ってるよな…


■医療とお金
読んでみてちょっとショックだったのが、現場に払われるお金がどんどん減っているという話。

例えば、診療報酬。これもなんとなくイメージで、ほとんどそのままお医者さんの給料になると思っていたけどそうではない。お医者さん以外の人件費、医薬品、材料費、設備投資費をはじめとする経費も含まれている。つまり、一般的な企業で言うところの「売上高」。

それなのに、メディアではそこをとりあげて、診療報酬の値上げ要望を医者の収入アップ運動のように扱っている。実際は、診療報酬を0.数%下げるだけで、利益ギリギリの病院や診療所では経営が困難になったり、収入が10%以上マイナスになったりする。

こういう中で、医療経済実態調査ではイメージ操作と見えるような比較もされている。医師の収入の比較がされているけど、病院の勤務医と開業医の院長とを比較している。これは、社長と一般社員を比較するようなもの。

さらに、幅広く目を向ければ、金持ちの医者もいれば貧乏な医者もいる。それをいっしょくたにしてしまってなんとなく医者は金持ちみたいなイメージにされている(自分もそういうイメージやった)。

しかも開業医は起業と同じようにいろんなリスクをとって開業しているのに、そのリスクに対する対価という視点はあまり触れられない。共著者の今村さん自身も開業してから最初の5年間は勤務医時代より収入が相当減ったということ。

起業家は成功すると称えられるのに、開業医は成功してお金持ちになるとなんかイメージ悪いっていう感じか…

精神的なプレッシャー的とか事務処理が増大する中で、経営が厳しくなり、収入も下がり…となったら誰だって仕事を維持していくのは難しいよな…。


■医療と消費税
医療とお金の中で特にとりあげられていたのが医療と消費税の話。医療機関は消費税を「払い過ぎ」になっているという「損税問題」。

保険診療は非課税のため、診療を受けた患者は消費税を払わない。一方、医療機関は、診療を行うために購入する医療機器や医薬品の購入の際には消費税を払う。

もし、診療が課税されていたら、医療機関は、患者が払った消費税と診療に必要なものの購入に払った消費税との差し引き分だけ納めれば良く、実質的な負担はない。

しかし、患者からは受け取らず、医療機関は消費税を支払うので、医療機関が税金の分を負担する形になっている。これがバカにならない。私立医科大学1病院につき1年当たりで3億6千万円。

一応診療報酬の中にこれを補填する部分が設定されているらしいけど、中途半端な範囲や額になっていて、足りない上に、患者間で不公平な形での負担になっている。

患者間で不公平な負担になり、しかも、医療機関も負担が大きい形になっていてそのままになっている。その上消費税が上がるとさらに負担が増える。

消費税の話は、社会保障の財源という文脈で語られることが多いけど「医療の財源として考えられている消費税が、逆に、医療の持続性を危うくするという逆説的な事実は、ほとんど知られていない」(p230)。


■医療の位置づけ
税の観点から言うと、医療分野の扱いに一貫性がないという話。

  • 国税では医療はサービス業として法人税を課税
  • 地方税の中の都道府県税である事業税は、公共性が高いということで非課税


国と地方で位置づけにずれがあるということらしい。
しかも知らなかったので驚いたのが、日本の行政システムの中で医療の位置づけが明確にされていないということ。

厚生労働省の設置法第三条(任務)にはこう書いてある。

「1.厚生労働省は、国民生活の保障及び向上を図り、並びに経済の発展に寄与するため、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進並びに労働条件その他の労働者の働く環境の整備及び職業の確保を図ることを任務とする。
 2.厚生労働省は、前項のほか、引揚援護、戦傷病者、戦没者遺族、未帰還者留守家族等の援護及び旧陸海軍の残務の整理を行うことを任務とする。

この中に、「医療」についての文言が出て来ない。「公衆衛生」とか「社会保障」とかが近いと言えば近いのかも知らんけど、明確に書かれていないとは…

ホームページで条文見てみたけど、本当にそう書いてある。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO097.html

ただ、第四条の(所掌事務)にはちゃんと医療に関する話が書いてある。

九  医療の普及及び向上に関すること。
十  医療の指導及び監督に関すること。
十一  医療機関の整備に関すること。
十二  医師及び歯科医師に関すること。

一方、医療は消費者庁の介入も受ける。これは、医療を社会保障とみるか、消費とみるかというテーマと関わっている。

社会保障としてではなく、消費、サービスの一環としてとらえると、「医療はサービスだから、患者は完成品をもらって当たり前、丁寧に扱われて当然だという権利意識が肥大化している人たち」(p123)が出てくる。
権利意識の肥大化は医療に限らんけど、医療はそもそも公共性が高い仕事なのでそこの認識にずれが出てくると、お金の面でも精神面でも辛くなるはず…


■年金と医療保険
話の中で、年金と医療保険の違いについての話が出てくる。年金も年金で世代間の格差が言われているけど、まだ積立金がある。

それぞれの支払い原資は次のようになっている

  • 年金→積立金を運用したお金+若い人からの掛け金
  • 医療→税金+保険料+患者の一部負担

年金の場合、額に違いがあるとは言え、上の世代が若い頃から払ってきた積立金があるのでそれが緩衝部分になる。しかし、医療の場合は今現在の若い世代の保険料がそのまま使われていて積立金がなく、緩衝部分がない。

このため、「世代間格差は許容し難い状況になっている」(p54)ということ。この議論の当否はもう少し調べる必要がありそうな感じやけど、もしある程度当てはまるとすると、若い世代に入る身としてはやるせないなー。

世代間格差の話は年金の方が主なイメージやったけど、医療保険の方も関心を持っていかな。


国家財政の大きな部分を占める社会保障費に関わる医療。この部分の実態について知っておくことは大事やと思う。そういう意味で、教科書的ではなく、また、メディアで言われているような内容とも違った視点を提供してくれるという意味で貴重な一冊やと思った。

2013年1月22日火曜日

プロフェッショナルとしての職業倫理意識の高さが描かれている「マッキンゼーをつくった男 マービン・バウワー」

マッキンゼーをつくった男 マービン・バウワー

マーケティングキャンパスのノヤン先生が紹介していたので読んでみたもの。マッキンゼーの発展に大きく貢献したマービン・バウワーという方についての本。評伝のような感じの形式をとっている。

経営コンサルティング業界読本のような内容ではないので、経営コンサルティング業界ってどんなところ?っていう問いへの直接的な答えにはならないけど、経営コンサルティングとは、プロフェッショナルとはどうあるべきかということが示されている内容。

特に職業倫理については、コンサルティングに携わっていなくても仕事人として参考になるポイントが多い。


■経営コンサルティングという職業のビジョン
経営コンサルティング業と言えば、特に外資系コンサルの会社は今や学生の就職先として人気やけど、マービン・バウワーさんが入られた頃はそもそも経営コンサルティングという職業が確立していなかった。

顧客からも当初は海のものとも山のものともしれないような形で見られていた。その中で、どういったビジョンをもって、どのような職業規範を確立していったかが描かれている。

マービン・バウワーさんは、経営コンサルティングという職業のビジョンについて明確な言葉を使って繰り返しスタッフに話しかけたとのこと。

例えば、次のような言葉。

「この新しい職業を定義しイメージをつくるのは、私たち自身の言葉である。私たちが働くのは、モノやサービスの買い手であるカスタマーのためではない。依頼人であるクライアントのためだ。マッキンゼーは会社ではない。プロフェッショナル・ファームである。マッキンゼーには社員はいない。いるのはメンバーであり、個人の尊厳を持って働く同僚である。私たちに事業計画はない。あるのは大志である。私たちは規則ではなく価値を重んじる。私たちは経営コンサルタントであり、それ以外の何ものでもない。私たち自身が経営や起業に手を染めることはなく、ヘッドハンティングもしない。マッキンゼーが経営コンサルティングに専念する重大な決定を下したのは、一九三九年、スコービル・ウェリントン&カンパニーとの提携を打ち切ったときである。このときから私たちはマネジメント・エンジニアを名乗るのをやめ、経営コンサルタントという新しい名称を使うようになった。そしてこのときから、他の仕事の誘惑をすべて断ち切ってきた。経営コンサルティングに徹するという私たちの信念はファームに深く根づき息づいている」
(p36-37)

やるべきこと、やるべきでないことが明確な言葉で語られている。このビジョンに反することは、例え多くの利益を生むことであっても関わらないという方針を徹底させていたということ。


■ビジョンを書いて、話して、伝える
こうしたビジョンを話すことに加え、書いて明確に示していたということ。マッキンゼーの卒業生であるギャリー・マクドゥガルという方が次のように述べている。

「口で言うだけでなく、書いて明確に示すのが大事だということはマービンから教わった。何かを口に出し、取り巻きの賛同を得られるとそれで満足してしまう経営者がいるが、それは大きな誤りだ。マッキンゼーでは、マービンがブルーのメモをよく書いていた」(p244)

この「ブルーのメモ」というのは、マービン・バウワーさん用のメモで、みんなこのメモは重視していたらしい。

また、直接の対話を重視していたことも述べられている。

「トレーニング・プログラムでも講師を務めていたし、世界のあちこちを飛び回り、現地のオフィスに必ず顔を出していた。私も彼のやり方に倣った。シンガポールでも、スコットランドでも、どこでも、必ずビールとピザでミーティングをした。工場、営業、管理職がわけへだてなく話し合うクロス・セッションだ。膝を交えて話した相手には、あとで必ず二一百書き送った。何かあったときに「あなたはどう思うか」と聞ける相手を増やす。対話の輪を広げることに努めた。
 対話というものは、双方向でなければならない。自由に自分の意見を言える雰囲気をつくるために、意識調査も行った。モラルの問題も含め、匿名で答えてもらう。自分の考えを自由に言っていいし、経営幹部がそれをまじめに受け取ったとわかってもらえるように、あらゆる手段を講じた」(p244)

本の中では、こうした例の他にも様々な例が挙げられていて、いかにしてビジョンや方針を浸透させていったかということが描かれている。

コンサルティングの手法どうこうという内容を期待している人には期待はずれかもしれないけど、仕事に向き合う姿勢、職業倫理、経営方針やビジョンの浸透といったことに関心がある人にとっては参考になるところが多い一冊やと思った。

2013年1月19日土曜日

80年以上読み継がれているだけのことはある「広告でいちばん大切なこと」

広告でいちばん大切なこと

19世紀末から20世紀頭にかけてアメリカで活躍したコピーライターの方が半生を振り返って書かれた本。自伝的な内容。

タイトルは「広告でいちばん大切なこと」ってなってるけど、原題は「My Life in Advertising」なのでこっちの方が近い感じ。

元の本が出版されたのは80年以上前やけど、内容が全然古い感じがしない。

もちろん、扱われている商品や広告の例が古かったりするところはあるけど、考え方のところは今読んでもなお新鮮味がある。

■顧客の立場で考える
繰り返し述べられている重要な視点の1つが、顧客の立場で考えるということ。特に、この著者は大衆消費財の高オックに関わったので、庶民の視点で考えることを重視していて例えば次のように述べている。

「主婦が求めているものを白髪頭の重役が判断するなど、わたしには愚の骨頂としか思われない」(p29)

「わたしが言いたいのは、すぐれた広告というものがいかに普通で庶民的なものか、庶民の感覚を持っていることがいかに重要かということである。この仕事を始めたばかりの者は、言葉や表現力に頼ろうとすることが多い。奇抜な表現で注目を集めようとする者もいる。どれも自分の能力をひけらかすためだ。しかし、こうした広告は必ず読み手の反発を招く。わたしの知る真の広告人たちはみな庶民階級の出身であり、自分の仲間である庶民を理解している。
 庶民は賢明で、経済的で、つましく、疑い深い。日々の買い物で庶民をだませると思ってはいけない。高い教育を受けた者、上流階級で育った者が庶民を理解することはできない―!」
(p35)


■利他的になる=相手のためになるサービスを提供する
もう1つの視点が利他的になるということ。サービスを提供することとも言い換えられている。

「普通のセールスマンはあからさまに相手の歓心を買おうとす
る。自分の利益を追求しようとする。こうしたセールスマンは、「他社ではなく、うちの商品を買え」と言っているにすぎない。利己的な消費者に利己的な頼みをしているのだから、抵抗にあうのは当然だ。
 わたしが提供したのはサービスだった。わたしは常にパン屋の事業を支援した。わたし自身の利益はパン屋の意に沿うための努力に隠されていた」
(p79-80)

ここで挙げられていたのはパン屋の販促の事例。ショートニングの販売で、パイが有名な会社に売ろうとした時の話。

最初話をした時はもうすでにストックがあるので買わないよという返事。

そこで、話をする時に、トラック2台分のコストエットという商品を買えば、トラックの両側にパイの広告を掲載するという提案。

その結果、1週間で、6人のセールスマンが6週間で売ったよりも多くを売ったということ。

こうした手法について、他の人はこんなものは広告ではないと言ったりもするが、大事なのは相手の利益になること、サービスを提供することであるという話。

この点について著者は次のように述べている。

「「類似品にご注意を」、「本物をお求めください」。これはどれも、「他社に渡している金をうちによこせ」という訴えを言い換えたものにすぎない。このような訴えには何の効果もない。人間はおのおのが利己的な目的を追求している。他人の利己的な品を考えているひまなどない。利他的なアプローチで消費者の支持を請う気がないなら、広告の世界でも販売の世界でも成功する望みはないだろう。あなたもわたしも自分を犠牲にしてまで他人に利益を譲ろうとはしない。ならば、他人も同じと考えるべきだ。」
(p110)

これとも関連して、広告における過ちについて次のように述べている。

「広告における大きな過ちを二つ挙げるなら、それは自慢と利己心である。成功をおさめた人間は本能的に自分の偉業を他者に伝えたいと考える。晩餐会の席でなら、それも可能だろう。相手は逃げることができないからだ。しかし、広告では違う。法外なコストをかける場合は別として、広告では利己的な企てを成功させることもできない。どんなサービスを提供するのかを語れば、人々は耳を傾けるだろう。しかし、自分の優位を見せつけようとすれば、人々はそっぽを向く。永遠にだ。」
(p109)


■広告で新しい習慣を身につけさせるのは難しい
上記とは別の視点として、広告の限界についても述べられている。それは、広告では新しい習慣を身につけさせることは難しいということ。

「新しい習慣を生み出すためには、まず大衆を啓蒙しなければならない。これは通常、記者の仕事だ。
 わたしの知る限り、広告主が単独で、かつ利益を生む形で大衆の習慣を変えたことない。」
(p159)

この話と関連して、オートミールの販売の例を挙げている。著者は、オートミールの啓蒙キャンペーンを展開したが、オートミールを食べない人に新しく食べてもらうには膨大なコストがかかり、コストを回収できない。

こうしたことから、アプローチを変更。これ以降はオートミールをすでに食べている人を狙った広告を作成し、成功。

このへんの話は、クラウドサービスの啓蒙も同じかもなーと感じた。

上記の他にも、原則や考え方の面で今にも通じる話がたくさんあった。

例えば、反応あたりのコストの計算をしてたりするのはリスティング広告のCPAの話と通じるし、既存顧客と新規顧客で問い合わせ対応を変えるっていう話は、CRMの話とも通じる。

さすが80年以上も読み継がれているだけのことはある。広告について考える際に読んでおいて損はない一冊やなーと思った。

2013年1月17日木曜日

「カリスマ体育教師の常勝教育」はもしドラの現実版とも言える気もする

カリスマ体育教師の常勝教育

市立の中学校、それも荒れていた中学校に赴任してから陸上の部活動を通じた指導を徹底して学校を再生した体育教師の方の本。

指導の実績がスゴイ。陸上競技では、個人種目で13回の日本一。大阪府大会で12回連続の男子総合優勝、5回連続の男女総合優勝。

さらに、日本記録を予告して出す生徒も出すしたとのこと。それも著者の方曰く「普通の子」が成し遂げた記録。この過程を見た周りの人から、中学校の名前をとって「松虫の奇跡」と言われている。

教え子の方は卒業後も各界で活躍しているとのこと。また、このメソッドは企業でも取り入れられている。

本では、どういう発想、どういう手法で教育や指導を行なってきたかが説明されている。実際の指導で使ったシート等を始めとして具体的な手法も紹介されていて参考になる。


■マーケティングの発想を部活に
企業の活動とも通じる話がたくさんあった。例えば、日本一を達成するための差別化の戦略を立て、それを実行しているあたりの話はマーケティングと通じる。

具体的には、環境が整っていてすでに走るのが速い子どもと競争しても勝てる可能性は低い。それならということで、スタートで同じ土俵に立てるフィールド種目に集中し、日本一へ導く。

こうした発想の背景には、異業種から学んだ知識があり、そのきっかけは経営コンサルタントの方の勉強会。

「顧客の創造」「異業種から学べ」「深堀りして差別化をはかれ」というマネジメントの発想やテーマを学んだとのこと。

マネジメントといえばもしドラ。もしドラは小説やけど、この本に書かれている話は実際の話やからスゴイ。その他にも企業とも通じるポイントが幾つもあって参考になった。


■書くことへのこだわり
具体的な指導の中身の中で特に印象に残ったのが書くこと。技術の指導の前に「子どもたちの心を作る」ことが重視されているけど、そのベースになるのが書くこと。

まさか陸上の話で書くことが出てくるとは思わんかったけど、生徒は国語の授業より多く書き物の課題をやらされるらしい。書いたものは上級生や先生が徹底的に添削指導。

これは、自分の目標や行動を振り返ってまた次につなげていき、目標に近づくためのステップを生徒に身につけさせることにつながっている。

「もともと私は、書くことにこだわりがあり、「書くこと=文章化=思考」ととらえてきました。文章になった文字は、その人の考え、やる気、決意そのものです。そのため、長期目標設定用紙を使って未来の目標を定め、日々の目標と反省を日誌に書かせ続けました。子どもたちが書いた文字に赤ペンを入れて添削し、子どもに返す指導を繰り返したのです」(p41)

そして、書く量が、部活動の強さとも比例するようになってきたらしい。

「よく書ける子ほど強いのです。目標設定用紙の文字量、日誌の文字量、しっかりした文章を書けるということが競技力の向上につながってきたのです」(p61)

なぜ書くことが結果につながるかということは次のように説明されている。

「試合に備えて、目標をしっかりと設定し、過去の成功、失敗を分析する。そして心(メンタル)、体力、技の面で、何に注意をすればよいのかを整理する。それを細かく書き込ませて意識を高める。生徒は、自分で書いた必要なステップを、日々の生活で繰り返し繰り返し実践していく。そして、試合にのぞめば、予定どおりの結果が出せるようになったのです」(p41)

「書くというのはその人の思考そのものですから、頭の中が整理されて、意識が高まってきたら、気づきの能力も高まり、練習の質も上がる。その結果、競技成績も高まり、自己ベストや日本一を達成できるようになっていきました」(p61)

さらっと読んでしまうけど、実際にこれをやりきるのは指導する側もされる側も相当の努力と積み重ねが必要と思う。それをやりきるところがスゴイんやなーと思った。


■家庭のしつけ力の弱まり
上記とは違う確度で、教育関連のトピックの中で印象に残ったのが家庭でのしつけの力の弱まりの話。

体育の授業でも最初の三カ月くらいは態度教育に力を入れるとのこと。これはなぜかというと…

「あとから考察すると、態度教育を徹底した生徒は格段に指導の効果が高く、成績が伸びています。最初に心のコップを上に向けて人として学ぶ器をつくり、その後に牒まざまなノウハウを入れていけばいいわけです」(p106)

その背景としては家庭でのしつけ力の弱まりもある。

「教える側の真剣さを子どもたちが全力で受け止め、日々、確実に成長させるためには、話を莫剣に聞く態度が必要です。本来、それは「しつけ」として家庭で行われなければなりません。しかし、いまの家庭には「しつけ力」が足りない。二十歳をすぎてもまともな挨拶すらできない若者がゴロゴロいます。静と動の態度教育はそれを補う大切な指導でした。
 並行して、家庭での生活習慣も見直しました。家庭の教育力、しつけ力が弱いので、心づくり指導を徹底するうえで、家庭教育に踏み込まざるを得なかったのです」(p40)

また、次のようにも述べている。

「子どもの教育には、父性的な厳しさと母性的な優しさが、バランスよく発揮される必要があります。
 指導者はこのふたつをバランスよく発揮するか、もしくはそれぞれを発揮できる人を集めてきてグループで指導するのかどちらかです。ところが、最近の親や指導者は圧倒的に母性的な指導が中心です。
 母性主導の教育の果てにいまのような自由の意味をはき違えた若者の現状がある。教育のバランスが極めて悪いのです」(p178)

他にも、「面白さ」をはき違えていて、テレビ番組のお笑い芸人のように面白がってもらうことが良いというのは違うのではないかという話もあった。

一時は苦しくてもそれを乗り越えてやりきったところに本当の面白さがあるのではないか。そしてそれを経験させるためには時には厳しく我慢や忍耐をさせることが必要ではないかという趣旨。

このへんの話は子育てをしていく上でも頭に置いておきたいなーと思った。
これからの子育てや仕事の上でも参考になるポイントがたくさんある一冊やった。

2013年1月15日火曜日

「第8の習慣 「効果」から「偉大」へ」はリーダーシップとか忍耐について考える時に参考になるかも


第8の習慣 「効果」から「偉大」へ

「7つの習慣」の著者による本。7つの習慣もそんなに読みやすい本ではなかったけど、この本は輪をかけて読みづらかった。

なんとか読み終えたけど、結局第8の習慣が何を指しているのかもイマイチはっきりせんでぼんやりしてる。

ただ、7つの習慣の総まとめみたいな感じの内容にもなっていて復習になるし、他にも具体例がたくさん紹介されていて、書かれていることはその通りやよなーっていう内容があって、それもそれで良いリマインドになった。

■第8の習慣とは
第8の習慣が何かっていうと、リーダーシップや人への働きかけに関するもので、以下のように書かれている。

「自分自身のボイスを発見し、それぞれのボイスを発見するよう人を奮起させる」(p57)

「「第8の習慣」とは、リーダーシップを発揮することであり、それは相手にその人の価値や潜在能力をはっきりと伝え、本人が自分の中にそれらを見いだせるようにすることである」(p392)

また、7つの習慣のうち、1-6番目までの習慣は以下のように整理されている。
  • 1-3つ目の習慣…約束をして、それを守る
  • 4-6つ目の習慣…問題に関係者を巻き込んで、いっしょに解決策を練る
(p228-229)


4つのインテリジェンスっていうのが1つのキーワードになっていて、その4つは以下。

  • 知的インテリジェンス
  • 社会・情緒的インテリジェンス
  • 肉体・経済的インテリジェンス
  • 精神的インテリジェンス

この中では、特に、精神的インテリジェンス、すなわち良心を重視しているとのこと。結局良心かい!っていう感じやけど、そもそも7つの習慣は人格主義をベースにしてるので、それを考えればそうかなーと思った。

こういうところもあってか、本書の内容は全体的には道徳の教科書みたいな感じ。言っていることはほとんど正しいことやと思う。ただ、正しすぎるというか、正論すぎるので若干読みづらいのかも。

もちろん、中には面白いポイントも結構あった。



■相手が人間の時は時間がかかる
紹介されていた話の中で特に印象に残ったのは以下の話。

「人や文化が相手の場合は、焦ってもすぐにはよい結果は生まれず、逆に時間をかければ結果的にスムーズにことが運ぶのだ。モノが相手の場合は、これは当てはまらない。早くやればそれだけ早く結果も出る。相手が人の場合は、能率やスピードが非能率的なのである」(p309)

会議とかでも思うんやけど、効率化できる部分とそうでない部分がある。特に、アイデア出しとか創造性が求められる時とか、コミュニケーションの場としての機能を果たしている時とかは無理に効率化しようとすると、あまり良い雰囲気にならないことがある。

人や文化を相手にする時は時間がかかることをある程度覚悟して我慢することというか、忍耐が重要な気がする。

これと関連するのが以下の話で中国の竹の物語。

「ある種の中国産の竹は、植えても四年間は何も目に見えるものが育ってこない。ほんの少し地面から先が出ているだけである。草を刈り、水をやり、耕し、肥料をやり、立派に育つようにと、できる限りのことをしても、何も見えてこない。五年目に、この特殊な竹は二五メートルもの高さまで成長する。それまでは地下で根が成長するだけなのだ。そして一度しっかりと根を張ったら、今度はすべてが地上で起こるようになる。何も起こらないじゃないかと冷笑する連中に対して、実はずっと地下で根が成長していた証しとなるのだ。これと同様に、人格の発達でもまず個人レベルが先で、人と人との相互関係の中で信頼を築くことよりも優先される。そして人と人との問で信頼関係を築くことは、組織の中で、文化を築いていくことに先立って行われる。そうしてはじめて、組織は実際に最優先事項を実行することができる」(p467)

文化を築いていくとか、組織づくりとかについて考えていく時にこういう視点を持っておくと変に焦らずに済むように思った(もちろんスピードは大事だし速くできるにこしたことはないけど)。

上記以外にも、リーダーシップ理論の文献概要とか、リーダーシップとマネジメントの違いとかを整理した表とかがあって、リーダーシップについて考える時に読み直すと参考になりそうやと思った一冊やった。

2013年1月13日日曜日

子育てやコミュニケーションのヒントが満載の「社会SQの作り方」

社会脳SQの作り方 IQでもEQでもない成功する人の秘密 (講談社プラスアルファ新書)

タイトルにあるとおり、社会脳に関するトピックを扱った本。

「社会脳SQの作り方」というと、
子育てや教育ノウハウみたいな感じがするけど
どちらかというと研究寄りの内容でメカニズムを説明していて
「社会脳SQの作られ方」という感じの内容。

社会脳とは「社会性に関係する脳の働き」(p3)のこと。
ここで言っている社会性とは、
平たく言うと人間関係を築く能力、対人関係能力のこと。

この社会性の発達に脳の働きがどう関わっているか、
それと関係する子育てや教育をどう考えるべきかといった内容。

■社会性と脳科学の研究
従来の脳科学は個人の心理と脳の関係の研究、
つまり、他者と関わっていない状態の脳についての研究がメインだったけど
最近は人と人との関係における脳の働きについても視野を広げているらしく、
本書の内容もそういった近年の脳科学の研究成果を踏まえている。

脳のどういった部位が社会性のどういうスキルと関わっているかが
具体的に述べられているけど正確さを期すためなのか、
脳の部位の名前が細かく書かれていて
一読してさっと頭に入りにくい…

例えばこんな感じ。
「他者の考えや気持ちを察する心の理論にかかわる内側前頭前皮質、共感や事の善悪を判断する道徳性にかかわる眼窩前頭皮質、意思決定にかかわる背外側前頭前皮質…」(p50)

これだけ読むと意味不明やけど
ここで出てきた部位に関する具体的な研究の内容や例が
後からちゃんと出てくるし、何度も図があるページ番号を参照して
そのページに戻りやすいように配慮がしてあるので親切。

何度も図を見直したけど、
社会性と一口に言っても脳のいろんな場所が
かかわってるんやなーということが分かる。


■他者の心を読む心の働きの発達…心の理論
本書のキーワードの1つが「心の理論」。
これは、比較心理学者デイヴィッド・プレマックが提唱しているもの。

具体的には「他者の心を読む心の働き」(p20)のことで
大体4歳頃に心の理論を獲得するらしい。

このことから、特に1歳から小学校就学前までの期間は
社会的知能やスキルを獲得していくための
重要な時期だということが述べられている。


■誤信念課題
紹介されている研究の中で面白かったのが
「誤信念課題」という課題についての話。

これは「子どもが他者の誤った信念や考えを理解しているかどうかを見る」(p115)もの。
具体的には、例えば、まず次のような話を子どもに聞かせる。

「マクシという男の子が、緑の戸棚の中にチョコレートを入れました。マクシが部屋から出た後で、お母さんがそのチョコレートを青の戸棚の中に移してしまいました。その後、マクシが部屋に戻ってきました」(p115)。

この話を聞かせた後、次のように質問をする。

「マクシは、どちらの色の戸棚にチョコレートをとりに行くでしょう。緑の戸棚かな、青の戸棚かな」(p115)

この質問を受けた子どもが、もし、
マクシは緑の戸棚にチョコレートがまだ入っている
と思っていること(=誤った信念)を理解していれば
緑の戸棚にとりに行くと正しく答えられる。

この実験の結果、以下のようになったとのこと。
  • 4歳未満では正解者がいない
  • 4-6歳では半数以上が正解
  • 6-9歳ではほとんどが正解

4歳未満の子どもの頭の中では
マクシと自分の知識の区別がつかず
「チョコレートは青の戸棚の中にある」ということを
マクシも知っていると考え、
青の戸棚にとりに行くと答えてしまうらしい。

こうしたことから、4歳未満の子どもは
まだ心の理論を獲得していない
=自分と他者の考えの違いに気がつかないということ。

ちなみに、これをうまく活かせば
子どもが嫌いなものでも、おいしいと言って食べてみせると
自分も食べることもあるということ。
好き嫌いの解消に役立つのでメモ。

本書では、こうした理論や研究成果を踏まえつつ
子供が社会性を身につける過程について述べられている。


■子供はいつ自分に気づくのか
トピックの中で面白かったのが自己認知についての話。
要するに、自分という存在があり、他者と異なる存在である
ということにいつ気付くのかということ。

これを確かめるために鏡に映った自分を
認識するかという実験が行われている。

具体的には、赤ちゃんに鏡を見せてどういう反応をするか見てみる。
鏡の映像研究の結果からは、
子どもが自己認知ができるのは
大体2歳頃だと見られているとのこと。

生後6-12カ月の時期は
乳児のほとんどが鏡に映った自分に対して
笑いかけたりほおずりしたり
鏡の映像を他者と見なすような反応をする。

12-24カ月の時期は
鏡の後ろに回り込むなどして
映像の性質を確かめようとする。

20-24カ月の時期になると、
困惑や狼狽などの反応をしたり
鏡を見ながら髪を整えたり口紅を塗ったりと
鏡に映った映像を自分だと認知するようになるらしい。

他にも、赤ちゃんの鼻に口紅を塗って
鏡を見せた時にどういう反応をするかで
自己認知の過程を推測したりといったこともやられているらしい。
これはなかなか興味深い。

言われてなるほどと思ったのが
この能力はどんな動物にも見られるものではなく
限られた動物で見られる特殊な能力らしい。

当たり前のことのようにとらえていたけど
確かに言われてみればこれっていつどうやって認知するのか
っていうのはなかなか興味深い。


■なぜ視線を読みとる能力が大切なのか
これも言われてみてなるほどと思った話。
人の視線の変化やその意味を知ることができる能力は
対人関係能力の中で重要なものの1つであるということ。

「他者の視線の変化に気づき、その人の内的情報を得ることのできる子どもは適切な対人行動をとることができますが、それができない子どもは対人行動をうまくとることができないでしょう」(p106)

こうした点から、子どもが他者の視線をどう読みとるか、
また、それに脳の働きがどう関与しているか
といった点についても社会脳研究において検討が進んでいるらしい。

キーワードとなるのが「共同注視」。
自分と相手が一緒に第三者、あるいは、何か物を一緒に見ることで
自分―対象―他者の三項関係のコミュニケーションになる。

具体的には、お母さんと子どもが一緒のものを見たり
「あれを見て」といった形で
同じものを見るように注意を向けたりといった形で
コミュニケーションをとる中で社会性が築かれるということ。

これと関連するのがアイコンタクトの話。
母と子の間のアイコンタクトは
まず最初のコミュニケーションの1つになるけど
母と子が同じものを共同注視することによって
アイコンタクトが社会性を持つようになる。

おんぶとだっこもこれに関連してくる。
おんぶすると母と子の視線が同じ方向を向きやすいので
共同注視が起こりやすくなる。
(例:母が指さしたものを子が一緒に見る)

だっこして顔をあわせるのも良いけれども
おんぶで親子で同じものを見ることで
共同注視の機会を多く持つことを通じて
子どもの社会性をより豊かに育てられると述べられている。

さらに面白かったのが、ビジネス書などで
相手を説得したかったら正面でなく隣り合って座ると良い
等と書かれているけどこれにも共同注視が関連していて
共同注視による連帯感が関わっているのかもと述べられている。


■表情や感情を評価することの重要性
脳の中の扁桃体っていう部位は
表情の認知や感情反応に関わっているらしい。

この扁桃体に関して、ゴルナズ・タビビニアという
神経科学者の方の研究の話が興味深かった。

被験者に怒った顔写真を見せた時と
同じ顔写真を見せて表情を評価させた時の反応の違い

  • 怒った顔写真を見る場合
    →扁桃体が活発に働き情動反応が起こる
  • 怒った顔写真の表情の評価をさせる場合
    →情動反応が低下

つまり、怒っている表情を見た際に
「この人は怒っているんやな」と
表情の評価をすると情動反応が弱くなるということ。

これを踏まえて著者は次のように述べている。

「子どもが感情的になっている時には、どんな気持ちなのかをことばで表すことで、その感情反応を弱める効果のあることを示しています。これはなにも、子どもに効果があるだけではありません。大人にも十分応用できることがらです」(p102)

セルフコントロールの話でよく
自分の感情を認識するとコントロールしやすいみたいな話があるけど
それのメカニズムはこういうところなのかなーと思った。

著者はまた、インターネットやテレビゲーム、ケータイ等による
電子化、情報化によって子どもたちが
人と直接顔をあわせてコミュニケーションする機会が減ったことで
社会的知能の発達が困難になったのではと危惧している。

こういう話も良く言われるけど
相互に顔をあわせてご飯を食べたり一緒に過ごしたりっていうのは
やっぱ大事なんやなーと改めて実感した一冊やった。

2013年1月10日木曜日

「日本語にとってカタカナとは何か」を考えると日本の文化が見えてくる

日本語にとってカタカナとは何か (河出ブックス)

カタカナはどうやって作られたのか、どういう風に使われてきたのかといったトピックを扱った本。

3分の2くらいは、仏教がどう伝わったという話がメイン。日本人が文字をどう学び、使っていったかということを考える際に仏教の経典の話は外せないようなので仕方ないけど、途中までは仏教史を読んでるかのようやった。

それはそれで興味深かったけど情報の羅列が多くて若干眠かった…けど、最後の方で一気に面白くなった。

特に面白かったのがカタカナの発音の話とカタカナの意義の話。表題の「日本語にとってカタカナとは何か」という話は最後の方になってようやく明確に論じられる感じやけど、そこからが特に興味深かった。


■カタカナの発音
最初の方で、平安時代に法華経がどう読まれたかといった観点等
カタカナの発音について述べられている。

昔と現在では発音が違っているという話。
例えば、「はひふへほ」は
奈良時代は「パピプペポ」
平安になって「ファフィフゥフェフォ」
その後「ハヒフヘホ」と読まれるようになったらしい。

ホントかなー?と思っとったら
一五一六年に編纂された『何曾』というなぞなぞ集の書物にあった
以下のような謎かけが紹介されていた。

母には二度会いたれども、父とは一度も会わず。なにか。

この答えは「唇」 。

室町時代から江戸初期までの人々は、「母」を発音する時には
唇を軽く合わせて「ファファ」と発音していた。

この発音だと
「母」と発音する時は唇が二回触れあうけど
「父」と発音する時は触れあわない。

それで答えが「唇」。
今だと「ハハ」と発音するため、
母でも父でも一度も会わないことになるので
この謎かけは成立しないことになる。
ホントに発音違ったんやなーと納得させられた。

他にも
「ツルツル」は「ディゥルディゥル」
「啜る」は「ツゥツゥる」
と読まれていたとか例が紹介されていた。

さらにすごいのが小野小町の歌。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」
という歌の発音を当時の発音を書いてみると、
以下のようになるらしい。

パ ンニャ ンニョ イロ バ
ウ チュ リ ンニィ ケリ ンニャ
イ チャ ヂュ ラ ニィ
クワァ ンガ ミ ィヨ ンニィ プ ル
ンニャ ンガ メ シエ シィ マ ンニィ

もはや呪文やん…


■カタカナの意義
上記のような感じでカタカナの使われ方とかが紹介されているけど
じゃあカタカナを使う意義って何やったのかっていう話が
最後の方で論じられていてなかなか興味深かった。

著者は次のように述べている。
「<カタカナ>とは、すなわち、「生」の外国語の発音を可能な限り日本語として写し、外国の文化を我が国に移植するための小さな「種」のようなものなのではないだろうか。その「種」が育つかどうかは、その外来語が<ひらがな>で書かれるまで日本語として残るかどうかということになろう」(p191-193)

どういうことかというと、例えば
「コップ」や「テンプラ」は今は不可欠の言葉として使われている。

これらはカタカナ表記やけど、
「旦那」「孟蘭盆」「卒塔婆」といった言葉は
大本はサンスクリット語が漢語に音借されて
その後日本語になったもの。

他に、「天ぷら」「襦袢」「金平糖」という言葉は元々ポルトガル語だった。
今や「襦袢」なんて使わんやんっていうツッコミは置いといても
「てんぷら」や「こんぺいとう」はひらがなでも違和感なく使われている。

元々外国から入ってきた言葉を
そのままの発音で概念ごと外来の言葉や文化を日本語の中に取り込むのに
カタカナが役立っていたという話。


■カタカナは言語の正倉院&日本語の格闘家
ちなみに、これが中国語の場合だと漢字しか使えない。
すなわち、カタカナのように音をそのまま使用せずに
意味をくみとって翻訳して新しい語をあてるということを
歴代の王朝や政府がやってきたらしい。

これだと、「国家が公式の翻訳語を公表するまではそれをどのように使えばいいのかが分からない」(p205)

これに対して、日本語の場合はカタカナを使えば
すぐに外来の言葉も受け入れられる。
ひいては外来の文化を受容するのも速くなる。

こうしたことを踏まえ、著者は次のように述べている。

「おもしろいのは、日本語の中に溜っていく外来語は、世界の潮流の最先端で使われる言葉を、地層のように積み上げてきたということである。サンスクリット語、ペルシャ語、ポルトガル語、スペイン語、また漢語といっても呉音から漢音、唐宋音と、中国の文化の発達を層として見ることができる。
 このような言語は、広く世界を見てもほとんどない。<カタカナ>とは言うならば、言語の正倉院だったのである。
 我が国の文化は、世界からさまざまなものを輸入し、そしてそれを独自に発達させながら、世界に誇るものを創ってきた。「畳」「柔道」「着物」などは、いまや、ローマ字の「tatami」「judo」「kimono」となって外国でも使われている。グローバル化によって、日本語も国際語を供することになったのである。
 しかし、こうした文化を創るためには、柔軟に外国のものを受け入れていくための機能が必要であった。
 <カタカナ>は、まさに、その柔軟性をもって外国語を受け入れ、日本の文化に浸透させる役割を果たしたのである。これなくしては、日本語はこれほどまでにおもしろく発達することはなかったであろう。<カタカナ>は、文化の最前線で戦う日本語の格闘家たちなのである」(p207)

この見方は結構面白いなと思った。


■カタカナの使われ方
もう1つ面白かったのがカタカナの使われ方についての賛否両論の話。

むやみやたらにカタカナ語を使うことに反対していた人の例として九鬼周造の言葉が挙げられている。
九鬼は、以下のような例を挙げてくすぐったい感じがすると述べていたらしい。

  • 新聞の欄の名前…「ブック・レヴュー」「ホーム・セクション」(「家庭欄」という意味)
  • 「文藝春秋」での大臣/大臣級の人の発言…「労働者は無い、然るにメンタルの働き手といふものは余って居るという訳だな。それで高等教育と国の事情とがマッチしないですな」
  • 京都の舞妓…「オープンでドライヴおしやしたらどうどす」
ルー大柴的なしゃべりを思い出すけどこの話って今にも通じる。
ちなみに、坂口安吾は、外来語を無理やり排斥しようとする意見に対して次のように述べていたらしい。

「皇軍の偉大な戦果に比べれば、まだ我々の文化は話にならぬほど貧困である。ラジオもプロペラもズルフォンアミドも日本人が発明したものではない。かやうな言葉は発明者の国籍に属するのが当然で、いはゞ文化を武器として戦ひとつた言葉である。ラジオを日本語に改めても、実力によって戦ひとつたことにはならぬ。我々がラジオを発明すれば、当然日本語の言葉が出来上り、自然全世界が日本語で之を呼ぶであらうが、さもない限り仕方がない。我々は文化の実力によっで、かやうな言葉を今後に於て戦ひとらねばならぬのである」(p199)

言葉は文化と密接に関わっているので
言葉だけを無理やり改めても意味がないという話やと思う。

このことと関連して、ハイカラとモダンという言葉の歴史の話が興味深かった。

知らんかったけど「ハイカラ」という言葉はもともと「high collar」から来てるらしい。
元々は「ハイ・カラー」と言語に近い発音で「カラー」と伸ばしていたのが、
使われるうちに詰まって「ハイカラ」となったということ。
「modern」も同様に「モダーン」から「モダン」になっていった。

こうしたところに、外来語が「日本語」に生まれ変わる過程が表されているという話が紹介されている。「モダーン」の段階ではまだ半洋半和。
それが「モダン」とつまって独自の使われ方をすることで日本語として板につくという見方。

さらに言えば、上で述べられていた「てんぷら」の例のように
ひらがなになるともはや日本語として完全に取り込まれたと言っても良いと思う。
「モダン」は今は古い感じがするけど「もだん」となっていたら
また今も現役で使われてたのかなーとも思ったりした。

総じて、発音や概念をうまくローカライズしながら
日本語の中に取り込んでいくのにカタカナが使われており、
そのカタカナ語がどれだけ使われ、残っていくかで
文化として日本の中にどう取り込まれていったかが分かるという話やと感じた。

カタカナの歴史や使われ方を見ると日本の文化のいろんな側面が見えてきて面白いなーと感じた一冊やった。

2013年1月4日金曜日

科学(理科)を面白がりましょうよという著者の想いが伝わってくる「もっとおもしろくても理科」

もっとおもしろくても理科 (講談社文庫)

小説家の著者が書いた科学解説まがい(著者自身も「まがい」と言っているw)のエッセイ集。たまたま借りて読んだんやけど、どうも前作があってその続編にあたるらしい。

ただ、元々は雑誌連載だし、基本的に1章ずつ完結するので前のものを読んでなくても別に支障はなかった。

科学の話とは言え、語り口は軽い感じだし、そもそも挿絵が西原理恵子さんということもあって肩肘はらずに読める。特に、挿絵は内容とほとんど関係なくて、西原さんが描きたいように描いてる感じで面白く良い息抜きになった。


■科学をもっと面白がりましょうよという著者の想い
内容は、最初は進化、次に、生物と非生物の分かれ目、動物と植物の分かれ目、男と女の分かれ目という形でなんとなく順を追ってつながったテーマになっている。しかしその後は著者自身も語っているように脱線し始め、その次はいきなりロケットの話になる。

ロケットの原理が考えられたのは1903年でこれはライト兄弟が飛行機を発明したのを同じ年らしい。原理だけとは言え飛行機が発明された頃にすでにロケットのことが考えられていたとは知らんかったけど興味深い。

その後、原子とかビッグバンとか遺伝子とかの話になっていって、ビッグバンや遺伝子のところあたりは著者自身も消化不良な感じで説明を読んでいてもあまりすっきりする感じではなかった。ただ、なんとか科学や理科と言われる分野の話を面白く伝えようとする著者の姿勢は伝わってきた。

本編のエッセイの方ではいろいろふざけた感じで書いてあるけど、「あとがき」に著者の想いが述べられていた。この文章が書かれたのは1990年代やけど、すでに科学に完全に背を向けて生きていくのは難しい時代になっている。しかし、専門書を読もうとするとハードルが高く、難しくて理解が中々及ばない。

そうした時代にあって「わかる側とわからない側のかけ橋であることをめざして」(p262)書かれたのが本書。理科系の詳しい人からは間違いに対するツッコミや批判を受けることを覚悟しつつ、科学に背を向けている人に対して「楽しんでしまいましょうよ、科学を」(p262)と呼びかけるための試みの一つとして著されたということ。本書のタイトルにもその姿勢があらわされていて、「科学」ではなく「理科」という言い方をしている。

逆に、理科系の人にもメッセージを発していて、「科学も、人間を離れてしまってはつまらないことです」(p262)という信号を発したつもりだということ。

総じて、人間と科学(理科)はもっと面白いものだし興味を持ってちょっと楽しんでみませんか?という著者の投げかけが伝わってきた。


■白黒ハッキリ分かれるもんではない
内容の中で1つ面白かったのが「男と女の分岐点」というテーマでの話。

「性のあり方は、非常に様々である。いつでも必ずきっぱりと、ぼく男の子、わたし女の子、と分かれるとは限らないのだ」(p86)

そもそも有性生殖で性が分かれる生殖は1つのタイプでしかない。植物含めそういう生物が多いは多いが、必ずしもそうではない生物もいる。また、性があるとしても、決定的なものではなくコロコロ性転換する生物もいる。

人間の場合も男性と女性にきれいに分かれるわけではなく、いろんな中間型がある。ホルモンの分泌度合いによって変わってくる。本書では、平凡社の「世界大百科事典」の以下の記述をひいている。

「男女の性別は分離されておらず、すそ野のつながった双子山のような連続的なものとなっている」(p103)

これを受けて、著者は次のように述べている。

「人間は、まぎれもない百パーセント男と、まぎれもない百パーセント女、に分かれているわけではないのだ。
 かなり男、とか、くっきり男、とか、おおむね男、なんていうふうに、ぶれがあるのだ。女についても同じことである」(p103)

そして、このエッセイ(?)の面白いところなんやけどこう続く。

「サイバラがあのような女性であることも、別におかしなことではなかったのだ。大いにバクチで人生わやにしてくれたまえ」(p103)

こういう感じで西原さんとのかけあいが入ってくるので読みやすい。

性差の話は、あんまり深入りするとジェンダー論みたいになって難しくなりそうやけど、こういうふうに白黒ハッキリ分かれるものではないという話は改めて読んでみると興味深かった。

性差に限らず、世の中のことって、人間関係のことでも仕事のことでもいろんなものにラベルを貼って、あれは〇〇、これは××ときれいに分けようとしてしまいがちやけど、そんなにきれいに分かれるものばっかりでもない。

そしてそれは科学や生物の分野の話でも同じということがこの話からも分かる。白黒つけた方が一見楽な感じがするし、分かりやすいんやけど、そうすると抜け落ちるものがある。ただ、概念的には分けた方がシンプルで分かりやすい。その狭間でどう考えていくか、これは結構難しいけど興味深い問題やなーと思った。

なんとなく、「世界は分けても分からない」という本のタイトルを思い出した一冊やった。