2015年10月17日土曜日

「ハーバード流 逆転のリーダーシップ」とは、1人の優れたリーダーがビジョンを示し人々を引っ張ることではない


ハーバード流 逆転のリーダーシップ

イノベーションを導くにはリーダーシップが必要やけど、それは通常イメージされるようなリーダーシップではなく、異なった形のリーダーシップが求められるというのが主なテーマ。 

リーダーシップというと、壮大なビジョンを描いてそこに向けて人々を導いていく、決断力や判断力があってメンバーを引っ張っていくといった感じのイメージがあるけど、イノベーションをよく生み出している組織で見られるリーダーシップはそれとは違う型のものであるというのが本書の主張。 

「過去数十年のあいだに、リーダーの役割がもっぱら魅力的なビジョンを掲げて、メンバーを引っ張ることだと見なされるようになった」(p5)が、「リーダーの役割をそういうものだと考えていると、解決策のはっきりした単純な問題に取り組む場合はいいが、そうでない場合、かえって自体を悪化させる。まったく新しい対応が求められる状況では、あらかじめどういう対応をすべきかは誰にもわからない」(p5)。 

今の時代、画期的な商品やサービスを1人のビジョンや能力だけで生み出すことは難しい。それぞれの人の強みを見つけ出し、それを集め、組織として最大のパフォーマンスを発揮させることができるようなリーダーシップが必要で、それは先頭に立って導くというよりは背後から指揮するという羊飼いのようなもの。 

「リーダーの仕事は舞台を用意することであり、舞台の上で演じることではない」(p6) 

そのあたりを、ピクサー、グーグル、イーベイ、ファイザーなど、繰り返しイノベーションを生み出している会社の中でどのようにそれが実現されてきたかケーススタディとともに紹介している。個人的には、インドのHCLテクノロジーズの事例が興味深かった。チェンナイに行った時にも結構目にする会社で、大きな会社の中で組織転換をどう図ったかという事例になっている。プロジェクトチームで掲げられたキャッチフレーズとして「タンビ」(p75)という言葉が選ばれたけど、これは南インドのタミル語で「兄弟」を意味する言葉なのも印象的やった。 

そのHCLテクノロジーズで改革を主導したヴィニート・ナイアーさんの言葉。 

「リーダーはあらゆる質問に答えようとしたり、あらゆる問題に解決策を示したりしようとする気持ちを抑えなくてはなりません。むしろ、自分のほうから尋ねるべきです」(p93) 

本書の英文のタイトルは「Collective Genius: The Art and Practice of Leading Innovation」みたいやけど、こっちの方が内容とはマッチしている気がする。邦訳的には「ハーバード」とかつけた方が売れるっていう見込みやったんかなとは思うけど…以前読んだ「凡才の集団は孤高の天才に勝る」という本ともテーマ的には似ている感じ。 

上記のような組織で見られる特徴としては、いろんな矛盾を統合的に解決しようとしているところ。テーマとしては、個人と集団、支持と衝突、学習と成果、即興と構造、根気と切迫感、現場主導とトップダウンなどなど。これらのどちらか一方のみをとるのではなく、行ったり来たりしつつ、最適なバランスを見つけ出している。 

バランスと一言で書くとシンプルに見えるんやけど、実際の現場で問題や摩擦が発生する中で最終的にどういう決定をチームとしてくだし、どういう行動をとっていくかというのはかなり難しい局面が多い。そういう時に、すぐに諦めずになんとか両取りできるようなことを目指していっている様子が事例を通じて描かれている。そして、それを貫くのはなかなかに難しい。 

「個人も集団も、いくつものアイデアがある複雑な状況では、不安を覚えやすい。メンバーはそんな緊張に耐えられず、ただちに状況を単純にしようとする。それぞれのアイデアを単純化し、別々に扱い、ひとつかふたつのアイデア以外すべて捨て去ろうとする。チームのメンバーにつねに全体を考えよ、単純化やしぼり込みをしばらく我慢せよと求めるのは、宙ぶらりんの緊張状態のなかにあえて身を置けと求めるのと同じことだ。 
 この要求を貫こうとするリーダーは、メンバーからの反発を覚悟しなくてはならない。そういうことを求めるのは、一般にリーダーに期待されている役割と食いちがうからだ。リーダーの役割とはふつう、状況を明確にし、指示を出すことだと感が得られている。たとえ一時的であっても、混乱を認めたり、奨励したりすることが役割だとは思われていない。リーダーーはできるかぎりすみやかに決定を下すこと、どれかひとつを選ぶことを期待される」(p260) 

イノベーションが生まれてくるなかで、統合的な決定がうまくいっていると、解決策を最初に提案した人が誰かとか、誰が主要な貢献者とかはわからず、いろんな議論のなかでどこからともなくアイデアが生まれてくる。誰が最初にそのアイデアを口にしたかを覚えている人はおらず、気がついたらそこにあったと感じられることもあるという。そこに至るまでにかなり紆余曲折があって根気も必要やけど、それに耐えられるかどうか。 

そして、イノベーションを導くリーダーに共通する性格が以下ということ。 

・理想家であるとともに実際家 
・全体的にものごとを考えるとともに行動志向 
・寛大であるとともに厳格 
・平凡な人間であるとともに人並み外れて粘り強い 
(p314) 

これを見てもわかるけど、一見矛盾している。それを自分の中で、そして組織の中でどう統合していくか。難易度高いけど、そもそも経営や事業運営、組織づくりっていうのは矛盾だらけなんで、それにいかに向き合うかっていうことでもあるなと思った。 

その他にも価値観、参加規則、創造的な摩擦、俊敏さ、失敗、リスクといったキーワード。イノベーションだけでなく、組織づくり全般にも参考になる事例がつまった一冊やった。 


2015年9月26日土曜日

「農は甦る 常識を覆す現場から」から伝わってくるこれまでとこれからの農業の姿

農は甦る

これまでの農業の課題とこれからの農業の可能性を考える上で充実の内容。事例も豊富。時代も戦後農政や農業基本法の話から現在の制度まで、形態もNPO、個人から企業まで、単作と複合経営といった耕作形態など幅広く扱われている。

一方で、個々の経営者や農業者の方も1人1人取材されていて、背景にある想いも踏まえながら丁寧にまとめていっている。取材もある時点だけでなく、ある時点から一定時間経過した時にどうなっているかというところまで追いかけられていて、それぞれの方の変化したところ変わらないところもわかって面白かった。

個人的には、らでぃっしゅぼーやの成り立ちとかこれまでの発展とかは、うっすら聞きかじっていたりしたけどちゃんと聞いたことがなかったので参考になった。他にも見知っている名前がちらほら出てきて内容も入りやすかった。

いろんな論点の中で印象に残ったのが企業の参入の意義の話。企業が入ることで生産管理はじめ技術や資本、その他販促や業務系のノウハウを投入して効率化ができるみたいなイメージの話が多いけど、実際にはそれだけで片付かない話も多い。そもそも生産の部分はこれまでにもある程度技術が突き詰められていて、農業自体のノウハウがない企業がポンと入ってすぐにどうこうなるものでもない面も少なくない。

ある事例では、オランダ式の最先端の栽培施設を持ってきたがうまくいかず頓挫。担当者の言葉のなかには、ヨーロッパのトマトの中心は調理用でそれに向く施設だったにも関わらず生食の高級トマトを作るような設計になっていてマッチしなかったことなどもあげられていた。

読んで一瞬、そんな根本的なところから…と思ったけど、よく考えるとそれは後知恵でしかなくて、やる前に十分予見できていなかったことややってみて初めてわかったことが、この話と同様にたくさんあるんやろうなーと思った。そういうところにうまく対処できるのがノウハウや経験だと思うんやけど、そういうものをいかに得て活かしていくか、あるいは積み重なっていくまで我慢できるか、続けられるかというところでなかなかうまくいっていない例があった。

そのあたりも踏まえつつ、生産だけではなくて別の面にも目を向けるべきだとしていて、確かになと思った。

「企業がみずから農場を持ち、農産物を作っても、システム全体の変革にはならない。生産に手を出す意義を全面的に否定するつもりはないが、生産者もその面では努力してきた。そうではなく、企業が農業とのかかわり方を変えていくことが、農業再生の起爆剤になる」(p229)

生産だけに着目するのではなく、生産者と消費者、生産と販売をつなぐ流通のところがキーというのが著者の見立て。生産者の話の中では、販路に関しての以下のような言葉があって印象に残った。

「営業なんかせんでも、仕事は山ほどある。応えられてないわけじゃないですか、ニーズに。ニーズがあるなら、役に立ってあげればいいんですよ」(p137)

著者は次のようにもまとめている。

「契約栽培が増えるなか、「いかに発注に応えるか」が課題になっていた。メーカーはときに発注を数倍に増やす。坂上はこの期待に100%応えようとした。「『100作ります』ちゅうたら、100作るんですよ。『ごめん、95で勘弁して』って一回でも言おうものなら、『こいつはひょっとしたら95しか作らない』と思われるようになる」。
 無理な要請もできるだけ受ける。受けたら、約束を守る」(p142)

約束を守るっていうとシンプルに聞こえるけど、天候はじめいろんな条件や制約があるなかでそれをきっちりやりきれるところは少なく、だからこそそれをやれるところにニーズも期待も集まってくるということ。先日機会があってお伺いしたある生産者企業の方も同じようなことを仰っていたのを思い出した。

野菜くらぶの沢浦さんの次のような言葉も。

「高齢化でみんな生産できなくなる。そうなったとき、だれに注文が来るのか。盤石の生産基盤があり、約束を守る。そういう仕組みがあるところに来るんです」(p172)

約束を守るということについてまた違った観点である企業と生産者の契約の話もあった。最初に話をしていたにも関わらず、契約していた価格より相場が高騰すると「出すもんないよ」と言ってくる農家がでてきて、農場を見に行くと倉庫の中に無いはずの野菜が積んであったりするような事例があったらしい。このへんは当たり前といえば当たり前なんやけど、いかに信頼関係を築いていくかという話でもある。当たり前のことを当たり前にきっちりやっていければ十分にまだまだできることや伸びる余地があるのかもなーという気もした。

あと、システムに関しての話も印象的やった。

「なぜシステムが必要になったのか。従業員が増え始めたころ、坂上はいかに自分の意図を伝えるかに苦心した。誤解されると、計画が狂いかねない。だから「従業員が考えなくていい仕組みを作ろうと思った」。目的はミスを犯さないよう管理することにあった。
 ところが、実際やってみると、『つぎはこうですよね』って言ってくる」。坂上は気づいた。「環境さえととのえれば、覚えていくんです。そこで『管理』から『支援』に変えたんです」。システムの基本は変えていない。形の変化より、システムを使う発想を変えたことが大きい」(p146)

上記とは別の観点で、野菜くらぶの沢浦さんの事務に関する言葉。

「農業やりながら伝票の整理なんかしてたら、農業やる暇はない。事務をやる人を雇用しなきゃなんない。その人に給料を払うには、それなりの販売量を持たなきゃなんない。そういったことを一つひとつやりながら、いまの規模になってきたわけです」(p160)

このあたりは今携わっているクラウドでの農家支援というところとも通じる話やなーと思ったし、そもそも一般的に営業活動にも通じるので、CRMの意義ともつながるなーとも思ったりした。

その他、以下いくつか印象に残った言葉。

まず、「分散した畑は苦にならないか」という著者の質問に対するサカタニ農産の坂上さんの答え。

「一枚の畑で三百枚分あったほうが、絶対いいですよ。でも、そんなこと言ったって話にならんでしょ。だって、おれの足が長いとか短いとか、いまさら言っても」(p137)

その他ランダムに。

「法人にすることで、つぎの世代に引きついでいきたい。都市と農村をつなぐ役割をはたし若い世代につないでいくのがみんなの希望です」(p256)ーNPO法人馬頭農村塾 野崎さん

「お金ってもんはどうためこむかではなく、どう使うかなんです」(p260)ーサカタニ農産 坂上さん

「あたしこういうところが好きなの。採算がどうのっていうことより、お金を使うっていのはこういうことじゃないですか。自分がやったことが形になり、この山が証拠として育っていく。これが楽しいんです」(p259)ーえこふぁーむ 中村さん(かつて人工林で禿山になっていたところにクヌギを植えて)


全体を通じて、農業の話としてはもちろんのこと、農業の枠にとどまらずこれからの社会や人の生き方のあり方を考える上でもいろいろ示唆に富む事例が豊富な一冊やった。 

2015年5月30日土曜日

「ネイチャーエデュケーション」は身近な公園で子どもを夢中にさせる自然教育だけでなく大人の仕事論としても面白かった

ネイチャーエデュケーション 身近な公園で子どもを夢中にさせる自然教育

タイトル通り、公園に子ども連れてく機会が多いのでなんか参考になるかなーと思って手にとったら予想外に面白かった。

パラパラ見た時に植物や虫の紹介や遊びの種類みたいなのが目に入って、そういうのが羅列してあるガイド的な本かなーとも思ったけどそれだけじゃなかった。後半はそういう感じになってるけど、前半はそういうのではない。著者のこれまでの実践経験からの考え方みたいな話が書かれていてそっちが面白かった。

著者自身は世界一周の旅をしたこともある、国内外各地を歩いてきた方。アウトドアイベントの企画や運営、研修講師、応急救護講習講師、自然ガイドの他、幼稚園や保育園での活動に力を入れていて、保育士向けの自然体験指導者育成や幼児向けの教室を開催しているとのこと。

プロローグは自然遊びの話から入るのではなく、著者がエチオピアの村に到着した時に子どもたちと交流した時の話から入っている。言葉も文化もわからないところで、周辺情報収集のためにまず子どもたちと仲良くなることが有効で、その時の話から子どもたちが好きな動作と行動の法則の話につなげている。

具体的にはこんな感じ。

子どもが好きな動作
走る 目標に向かって走る、ステップを使って走る、短・長距離を走るなど
飛ぶ 高いところから飛ぶ、長い距離を飛ぶ、高く飛ぶなど
投げる 高く投げる、遠くまで投げる、目標に向かって投げるなど
登る 高いところ(木、岩、建物)を登る、斜面を登るなど
転がる 体を寝かせて転がる、アクロバティックに転がる(マット運動のような動作)

子どもが好きな行動
競争する チームで、個人で
見つける 人を見つける、目標物を見つける
自慢する 特技を自慢する、持っている物を自慢する
教える 知っていることを教える
真似する 人、物、そのほか生きものなど対象物の真似をする
(p17)

さらっと読むと当たり前な感じやけど、改めて読むとなるほどなとも思える。40数ヶ国の子どもたちとやりとりしてすべての子どもたちが共通して好きなのがこういうことだということがわかったということで実体験にもとづいての話なので説得力がある。そして、今の幼児自然体験において大切にしている法則となったということ。

こうした法則の話だけでなく、具体的に保育園や幼稚園の活動で体験してきたエピソードも紹介されていてそのあたりも興味深かった。1つ印象に残ったエピソードが新年度スタート直後の活動の話。

初めて園児たちと顔合わせをして、プログラムをスタートさせ1回目は「次にいつ来るの?」と言われるくらい友達になって無事に終了。しかし2回目、3回目となっても一向に話を聞いてくれない。話し方、注目してもらい方、子どもとの関係などいろいろ工夫したけど完全無視。

意気消沈していたある時、なんとなく目に止まった一人の子どもをよく観察していると、視線の先を追ってみたところ飛び回る小さな虫をみていた様子。ほかの子も、ヒラヒラと落ちる葉っぱ、アリの行列、風で動く木などを見ていたのに気づく。

「この時、私はとても興味深いことを学びました。子ども達は、"集中していなかった"のではなく、面白い出来事に"集中していた"のです。
 園舎での活動とは違い、自然の中は"面白い誘惑"があちこちにあります。それは子ども達にとって新鮮で刺激的なもので、私の話の数倍目を引く存在だったのです」(p34)

これぞまさにパラダイム転換やなーと思った。これに気づいた後は、目の前で起きている現象と子ども達の想像が重なるところをうまく拾い上げて活動に生かすようにしたところ、子ども達の「集中力」はあがり、飽きることなく自然の中でたくさん学べるようになったということ。

大人のねらいや思惑で見ると「集中していなかった」となるけど、実際には「集中していた」というのが面白い。こういうことっていろいろ転がっているんやろうなーと思った。

もう1つ面白かったエピソードが保育園の先生を対象に自然体験活動の研修をしていた時の話。自然の中をある家「知っている生き物をノートにどんどん書いていこう」という課題を行うも、10種類以上書けた先生は数名で、3〜5種類くらいしか書けなかった先生がほとんど。

理由を聞くと「本当にそういう名前かどうか自信がない」「名前をうろ覚えなので書けない」という答え。その後、「気になる生き物、植物、樹木に自分で勝手に名前をつけていこう」というワークをやったら、1人の先生から平均して20以上の新しい名前が発表される。どれも特徴をわかりやすくした名前ばかり。

その後日談として研修後の変化を先生たちに聞くと、「自然にくわしくないというネガティブな感じが消えました」「自分で名前をつけた生きものを先日すぐに見つけられ、その面白いところを園児に話せるようになりました」(p75)との報告。

図鑑を使って脳みそから入れようとするのではなく、感性のおもむくままにまずは五感で自然に触れ合って楽しむのが良いよねという話。自然遊びの達人というのは「すごい人達」というイメージから一旦離れて、難しいことを考えずに「面白い」ことを優先して自然の中で子ども達と一緒に遊んで、わからないことがあったら一緒に考えるというスタンスは良いなーと思った。

その他、具体的に自然を楽しむアドバイスも書かれていて、1つが「道草食いニストになる」(p59)というもの。ゴール直進ではなく、ぶらぶらしながら道草を食う。そのためには歩くスピードをふだんの10分の1くらいにする。歩くスピードが遅くなるほど入ってくる情報が増える。そうすると自然の変化にも気づけるし楽しめる。

もう1つ面白い表現だなーと思ったのが「壁際族になる」(p62)というもの。メインの道から少し外れて「際」を歩くと、人間の気配が薄れて人間以外の生き物達の気配が濃くなる。そこにはいろんな発見がある。

さらにこれは表現としてはオーソドックスやけど「どうして・なんでちゃん」(p64)になるということも。よく小さい子どもがなんで?なんで?と聞いてくるけど、これはなぜ大事かというと、「人間の潜在的な、自然に備わった学習意欲の始まりであり、「疑問に思う→仮定を立てる→調査する→答えを導き出す」という学びのサイクルにもつながる」(p65)からということ。

これは仕事にもそのまま通じるし、学校や会社、その他の組織やコミュニティで問題解決能力が高い人っていうのはこういう身近なところからもそういった力が鍛えられてきたのかなーとも思ったりもした。

この話に関してウィットに富んでるなーと思ったのが以下の一節。

「気をつけていただきたいのは、癖がついて日常的に「どうして・なんでちゃん」になり過ぎてしまうことです。生活が豊かになることでもあるので非常によいことだとは思いますが、大人と大人の関係においては少々面倒な人になってしまう危険性もあります。スイッチはオンとオフがありますので、切り替えはしっかりするようにしましょう」(p67)

これは確かに(笑)。でも著者も言ってるけど、大人になるにつれて、だんだん改めて「どうして?」「なんで?」と問うことをしなくなって、これはこういうものだ式に進めていっちゃうことも少なくない。特に組織でやってる仕事なんて、いちいちそもそも論を唱えていたりすると面倒な人と思われるちゃったりもする。

でもそういうところが大事だったりするわけで面倒臭さとそういう本質の大事さとの兼ね合いをどうとっていくかっていうのも鍵やし、子どもはそういういところも成長しながら学ぶ(これを学ぶというのであれば)のかなーとも思ったりもした。

上記の他にも、子どもに関心を持ってもらうための話し方や伝え方といった内容もあって、それはコミュニケーション一般の話としても読めるような内容でもあった(事実を羅列して伝えるのではなく、内容を編集して子どもがワクワクするような言い方で短くわかりやすく伝えることが重要など)。

メインの内容の自然遊びのヒントだけでなく、もっと根本的な子どもとの関わり方、相手を踏まえたコミュニケーションのとり方などいろんな面でヒントが得られる一冊やった。


2015年4月22日水曜日

「ファーストペンギンの会社 デジタルガレージの20年とこれから」の感想

ファーストペンギンの会社---デジタルガレージの20年とこれから  
表題どおり、デジタルガレージの歴史についてつづった本。著名な会社ではあるし、事業についてはいろんなところで耳にするけど、詳しい歴史については今まで知らなかったのと、インターネットの歴史と会社の歴史が重なっていていろいろと勉強になった。

1つ印象に残ったのがツイッターの話。デジタルガレージがツイッター社に出資し、日本での普及の推進を担ったということやけどその中でツイッターの担当者の方がミートアップ(オフ会)に積極的に参加したというエピソードが印象的やった(p59)。ツイートを「つぶやき」と訳したのはユーザーの声を参考にして決めたという。

あとはイノベーションの今後についての伊藤譲一さんの洞察も興味深かった。「ソフトウエアで起こったイノベーションコストの劇的な低下が、ハードウエアにも及び、そして、バイオでも起ころうとしている」(p81)ということ。これだけやとふーんっていう感じやけど、具体例がいくつも挙げられていて、時代がそこまで進んでいるのか〜と思わされる話がたくさんあった。

仕事柄ソフトウェアの話はよく聞くし触れる機会も多いけど、ハードやバイオについては普段はなかなか意識しない。しかし、ハードの世界でもアジャイル的な開発が進んでいて、中国の深圳の工場では毎週のように新しいモデルの携帯電話を作って露店で売って反応をみて、よりコストパフォーマンスが高い携帯電話を生み出していっているとのこと(p101)。

もう1つ結構印象に残ったのが、分子生物学者のジョージ・チャーチという人が遺伝子工学について書いた本の話。本の情報をエンコーディングして遺伝情報に置き換え、それをバクテリアに入れて70億個に培養したという。そうすると全世界の人に1冊分ずつの情報が行き渡るだけのバクテリアの遺伝情報ができたということになり、バクテリアの遺伝子解析をすると本の情報を取り出せるという。

これの何が良いかというと、複製にかかるエネルギーがかなり少なくてすむのと、記録密度がハードディスクより高いということ。遺伝情報を解析してデジタルデータに戻すコストがまだかかるけど、そこのコストはどんどん下がっているということで、遺伝子を使ったビデオレコーダーみたいなのが登場してもおかしくないくらいリアルな話ということ(p134)。

「バイオの研究があまりにも急速に進んでいるから、メディアも追い付けていない。研究者たちも、研究に一生懸命で忙しいから説明できていない。でも、これが現実なんだ」(p135)

その他にも「コンテクスト(文脈)」(p182)が大事で、その裏にあるデータベースやビッグデータの情報をコンテクストに応じて提供していければ会社は繁栄できるっていうのは、先日CEOが言っていたことともかなり近くて興味深かった。

他にも教育に関する話も。

「現在の教育は、テストによって所定の学力があるかどうかを判断して学位を与えるような文化だけど、これはあくまでも個人個人の知識レベルを測っているだけで、他人との協調性などを評価することはできない。実際には、みんな携帯電話を持っていて、いつでもどこでもウィキペディアを検索できるのだから、知識を詰め込むことの重要性は薄れている。セーフキャストのようにこれからは、必要な時に必要な情報や協力者を見つけ出して価値を生み出すことが重要になる。それには、プロデュース力や、考える力、適切な質問をする能力などが必要となる」(p106)

「知識を詰め込むのではなくクリエイティブでいるために脳を使う、という意識への転換をする必要が有る。産業革命の時は、機械は人間の動きをすべて置き換えるまでには発達していなかったから、同じ作業を安定して繰り返せる労働力が必要だった。でも今は、ロボットとコンピューターがどんな作業でも繰り返しやってくれる」(p107-108)

ITの話だけでなく、そもそもの社会や人間、組織のあり方についても考える際に面白い視点を提供してくれる一冊やった。

2015年3月17日火曜日

コクヨに限らず役に立つ「コクヨの3ステップ会議術」

コクヨの3ステップ会議術

前読んだ本に日産の会議術みたいな本があったけど、最近こういうの流行ってるんやろか。こちらは「コクヨの」と銘打ってはいるけど、すべて一般的に通じる内容。内容は他の会議本と通じるところも多いけど、図解もあって例も具体的でわかりやすい。ポイントもよくまとまっている感じ。

改めての内容も多いけど、いくつか特に印象に残った点。

■「発散」と「収束」を分ける
いろんな意見やアイデアを出す「発散」と、出された意見を取捨選択して結論を出す「収束」とを混ぜない。
「会議がうまくいかない最大の原因が、この「発散」と「収束」を混ぜてやってしまうことにあります」(p18)

これホント大事と思う。もともとこの区分を知ったのは別の本でそれ以来意識するようになったけど、この2つを意識するだけでもかなり大きい。

定例会議とかがこういうのに陥りやすくて、報告している最中に議論が始まったりして、後のアジェンダがなあなあになったりする上に、途中から議論し出すと議論の効率も良くないし目的やゴールも曖昧だったりする。そこを明確に分ける。

同様に、会議自体の性格も「創造会議」か「定型会議」かを分けられる。
 創造会議…アイデア、創造性を求める会議
 定型会議…情報共有が主目的で、創造性はあまり必要でない会議
(p22)

自分が参加していたある会議では、報告とそれ以外(検討・相談・調整・共有)の項目を分けるようになってから、それまで2時間とかかかることも珍しくなかったのが、だいたい1時間以下に収まるようになったりした。変えたのは、報告なのかそうじゃないのかを分けて、後者は全部報告が終わった後にまとめたことだけ。アジェンダの中身はそんなに変わってないと思うけど、それだけでも結構違った。そのへん改めて大事やなーと思ったり。

■会議のマネジメント
以下の3つのポイント。
・アイデア・マネジメント…参加者から発言を引き出す
・タイム・マネジメント…時間内に結論を出す
・チームワーク・マネジメント…会議の空気をつくる

会議の有効性を高めるとか効率化というと、なんとなくタイム・マネジメントのイメージをしてしまうけど、他の2つをしっかりやることによって結果的に時間も効率的になるのかなーとも思ったりした。

■アイデアの引き出し方:「常識」を並べてみる
これはこの本で初めて知ったアイデアで面白いなーと思った。例えば、残業削減をしたいときに、いきなり残業削減のアイデアを出すのではなく、まず残業に対する常識を考えてみる。

「繁忙期の残業は仕方ない」とか「上司が残業してたら部下も手伝う」とか「企画は時間がかかるからいつも残業になる」とか。そうすると、常識によってアイデアの幅が狭くなっていることがわかり、それを外すことでアイデアが出てくるという発想法。

■決定を行動につなげる「まとめ」をする
本書でも書かれているけど、会議をやっても意外にまとめをせずにふわっと終わることがあったりする。役割分担や未決事項に対する宿題が曖昧なままで結局進まなかったりということもあったり。

「やることが決まれば自然と実行されるのではなく、誰が何をやるかまでしっかり決めるから実行されるわけです」(p182)

さらに言えば、これに「いつまでに」というのも重要で、このへん曖昧だとまた同じ話が繰り返されたりするので注意やなー…


上記の他、進行役と板書役は分けたほうがいいかとか、タイム・キーパーと進行役は分けたほうがいいかとか、ホワイトボードの使い方とか、モニター表示とホワイトボードのどちらが良いかとか結構実践的な内容も。

「おわりに」では、会議はリーダーシップを身につける場として有効ということも書いてあった。別に進行役やファシリテーターとしてアサインされていなくても、誰が仕切るかよくわからなかったら積極的に自分から進行役を買って出ましょうという提案。

「「誰もいなければ、自分で会議を乗っとろう」というぐらいの気概を見せ、挑戦することが自己成長につながるよい機会となるはずです」(p184)

他にもいろいろと参考になったりいい振り返りになったりするポイントがまとまっていて、始めて会議について何か取り組んでいくときに一通りポイントをつかむのにも良いし、手元においてパラパラ参照するのも良さそうな一冊やった。これまでいくつも会議本読んできたけど、この本は結構おすすめ上位かも。

2015年3月2日月曜日

「「全身◯活」時代 就活・婚活・保活からみる社会論」の感想

「全身〇活」時代―就活・婚活・保活からみる社会論

もともと「現代思想」という雑誌に掲載された対談をもとに発展させて追加の対談を行って掲載したもの。

対談者の方は奨学金問題対策を行っている大内裕和さんという方と、もともと朝日新聞に勤めていて労働や雇用問題に関する調査や報告を行っているジャーナリストの竹信三恵子さんという方。竹信さんは、前に読んだ「家事労働ハラスメント」の著者。

構成としては3部からなり、表題にある、就活、婚活、保活をそれぞれ主題としている。ただ、根底にある問題の構造は共通していて、テーマを変えつつもその共通部分が通奏低音のように響いてくる感じ。問題点としては、長時間労働や格差の拡大など、他でもよくあげられるところ。その中で特に、世代による感覚の差について繰り返し議論されている。

大きく2つの層に分かれていて、その間に「世代間断層」があるという。具体的には、以下の2つ。
・高度成長期からバブル経済期にかけて社会に出た層
 「高度成長期の成功イメージが忘れられず、危機に陥るたびにその時の解決方法を繰り返すことで機器からの脱出を図ろうとする人々」(p10)
 円安になれば、オリンピックがくれば、女性が家事や子育てに専念すれば…といった言説で「夢よ、もう一度」の発想で物事をフラッシュバックさせる。

・バブルが終わった後に社会に出た層
 「生まれた時から低成長社会で、その後のデフレ時代を生き続けてきた世代」(p10)
 産業は空洞化し、オリンピックが来てもその効果は行き渡らない、夫の雇用の安定もないし非正規化も進む上に、「そもそも少子化で数が少なく、社会に異議を申し立てる方法についての教育も乏しいなかで育ってきている」ため「あなたがたに見えている社会は、もはや幻想にすぎない」(p11)という講義の発信さえ十分にできない。

こうした世代間の断層を背景に、就活、婚活、保活といった形で問題が表出している。就活については「一言で言えば「二〇三高地攻め」」(p18)であり、エントリーシートを大量に出せとか就職できるまで会社周りを続けろとかいった状況を歩兵の人海戦術で突破する状況になぞらえている。しかもそれを突破してなんとか就職できたところで苦しい状況があったり。

その親の世代は、バブルを経験していて正社員になればなんとかなるという発想。子どもは子どもで親を失望させたくないという思いでがんばって正社員内定の道へ突き進む。これに関して引用されているのが以下の話。

「戦前の徴兵で、当人が戦争がいやで逃げ出したら母親が軍に密告した、といったエピソードがありますが、軍隊に放り込んだら戦争で殺されるとわかっていても、行かないと社会のなかで居場所がなくなってしまうので、密告して引き戻すのが親の愛、という状況になってしまっているのではないかという印象すら受けます」(p30)

ちょっと極端な例えかもしらんけど、こういう感じはあるんやろか…しかもちょっとショックだったのが最近の学生の反応の話。愛知県の「学費と奨学金を考える会」というところの学生が、周囲の学生に対して、奨学金返済の困難さと悪影響について話をすると「そんなことを話題にするのはやめてくれ」(p90)と言われるらしい。

そんな「重い話」はやめてくれということらしいけど、対談者の方が大学で講義しても、名ばかり正社員やブラック企業の話をすると、それもまたそういう話はやめてほしいという反応がくるという。もちろん、それに刺激を受けて考えたり行動したりする学生もいるけど、二極化しているということ。「空気なんか読んでいると正しい判断が出来なくなるから空気は読むな」(p93)と言っても「私は先生とは違うんです」(p93)という反応が返ってきたり。

学生だけでなく、対談者の竹信さんが2013年の参院選の前に友人に「アベノミクスは安定多数を取って憲法を変えるための『毛ばり』かもしれない。憲法改定が嫌だと思うなら自民に入れたら危ない」というと、「そんな話聞きたくない!」「これまで両親の介護をしてきて、二人を見送って、やっとこれから自分の人生を立て直そうとしているときに、そんな嫌な話聞かせないで!」という反応があったという。「みんな疲れていて、現実に向き合う余力もなくなっている」(p165)ということやけど、思考停止なんやろか…

男女の意識の話にしても、ゼミの学生の調査でインタビューをしたところ、男子学生からは「共働きはいいと思うが、やっぱり女性を養うのは男の沽券」と言う声があったり、女子学生からは「いいお母さんになりたいという思いが先に立って就活に身が入らない」(p104)という反応がきたり。「働く」という選択肢に対する現実味がない中で、さらに「みんなが言うから性別分業でいい」(p105)という空気も強まっている面があるかもという。

最後の保活の話は、保育所の歴史などもまとめられていてそれも結構参考になった。あと、これも結構ショックだったのが、対談者の大内さんが名古屋市と北九州市の保育士さんから聞いたという話。保育所での「いじめ」のパターンが変わってきていて、以前は階層間格差が比較的小さく、ちょっと人と違うふるまいをする子がいじめられることが多かった。

最近は、階層差がいじめの原因になってきていて、その背景にあるのが、一定数の母親が自分の子どもに対して「絶対に大学に行くな」と言い聞かせているといこと。保育士さんから今の段階では将来なんてわからないじゃないかという話をしても「何を言っているの。子どもに『大学に行く』なんて気を起こされたらおしまいでしょう。今からきつく言い聞かせておかないと」(p233)と言うそう。そして、「大学に行くな」と言われている子どもが、大学に行けそうな豊かな家庭の子をいじめるという。これが名古屋と北九州の2カ所で起きている。

また、バイトの話もかなりいろいろ。大学生になっても、バイトの拘束力がかなり強くなっていて、バイト先の職場で責任者になっていて責任を持たされていたりして、トラブルが起こると授業中でも携帯に電話が来る。その分の給料は出ない。「これバイト?」というレベルになってきている。ある工業高校の生徒は国立大学に推薦入学で入れるけど入学を蹴ったり、東京の有名私立大学に授業料免除で入れるにもかかわらずそれを蹴って就職したりという例も(p239)。バイトでの酷使について相談の電話をしてきた高校生は、事務所に相談に来てほしいというと、交通費があったらお母さんにあげたいということで交通費が出せないという。

上記のように、就活、婚活、保活をテーマにしつつ、今の世の中の生きづらい感じとその背景にある問題をいろいろと取り上げている。問題の構造や概要については、よく言われている話とも重なるけど、現場を取材してきている方が対談しているので、上であげたように具体的な事例の話が出てきていてそれが特に心に残った。

もともとは就活だけをテーマにした対談だったのが、好評につき続いて、対談している中で次のテーマが見出されてつながっていったという。対談者の方はそれは伏線というか必然だったのではと感じているということ。「良くも悪くも戦後の社会秩序と人々のライフコースを支えた日本型雇用が、新自由主義グローバリズムによって解体し、「就職」「結婚」「保育・子育て」を著しく困難なもの」にしている」「「全身◯活」とは、実現させることが極めて困難な構造がつくられてしまっているにもかかわらず、過去の「当たり前」に固執せざるを得ない若年層の苦境を明確に映し出して」(p250)いるということ。

読んでいて楽しい話ではないけど、今話題になっているようなキーワードから表層的な話にとどまらずに、現場での声や社会構造の変化の話まで、考えさせられる一冊やった。

2015年2月23日月曜日

予言から日本の歴史を概観できる「予言の日本史」

予言の日本史 (NHK出版新書)  

日本を騒がせた数々の予言をとりあげた本。目的としては「日本の歴史において「予言」というものがいったいどのような形をとってあらわれ、そこにどういった意味があるのかを探る」(p11)こと。時代としては、天照大神などの建国神話から、奈良や平安などにとどまらず、明治や戦後日本、現代までと幅広い。

「予言」というとアヤシゲなところもあるし、確かにアヤシイではあるんやけど、本書自体は予言を信奉しているという立場ではなくわりと客観的にそれぞれの予言が時代や社会に与えた影響を解説している。予言にしぼるというより、信仰や占いの話も含めつつ、いろいろそんな感じのものを扱っている感じ。

ちなみに知らなかったけど、「予言」も「預言」も英語では「Prophet」にあたって区別されていないという。予言者と預言者の区別は日本のキリスト教界だけで行われていることだとのこと。これは、日本では予言という行為を卑しいものとみなす傾向があるからだとされている。

しかし、特に昔に遡れば遡るほど、予言のもつ力というのが強く信じられていたので、時代を理解する上でも大事だったりする。個人だけでなく国家の運命にも大きな影響を及ぼし、「予言は時代や社会を動かしてきた」(p14)ともいえるという。また、今でも天皇の即位儀礼の大嘗祭で、神に捧げる稲を育てる田んぼを作る県を決めるためにも亀卜が行われている。

こうした予言を、日本の歴史と関連付けながら紹介していっている。

トピックス的に面白かったのが八幡宮の話。道教がからんだ宇佐八幡宮神託事件における予言の話とからめて紹介されているんやけど、もともと八幡神は宇佐で渡来人によってまつられていたもの。それが大出世をとげて日本全体で広く信仰されるようになったけど、その過程についてはまだ謎があるという。先日鎌倉の鶴岡八幡宮に行ってきたところだったので興味深い話やった。

あと、相手を呪い殺そうとする「呪詛」という行為は、1881年に制定された旧刑法の前身の「新律綱領」でも依然として取り締まりの対象だったらしい。もっと遡れば呪詛の効力が真面目に信じられていた時代があり、それに関係して陰陽師の話も。「安倍晴明はただの公務員だった」(p71)という書き方もなかなか面白かった。

あとは予言獣の話。予言をする半人半獣の生き物の話が江戸時代に流行ったらしい。そして、それは江戸だけにとどまらず、1944年4月に警保局保安課が作成した資料の中に、終戦が近いという予言をする牛のような人が出てきて、戦争が終わったら悪病が流行るから梅干しとニラを食べれば病気にかからないといって死んだというような話も。

また、近代のトピックでは「所得倍増計画」も一種の予言だったということ。同時代の人であっても、計画が具体的に何を指していたかというとあやふや。また、細かい内容を見ていくと計画通りには進んでなかったり(ちなみに農業近代化の促進はこの頃からすでに言われていた模様)。ただ、その印象だけが広がり、実際には実現されたとみられていて、池田勇人は「予言者として宗教家より優れていた」(p220)とも述べられている。

その他、松下幸之助の水道哲学には天理教の神殿を見たときの印象が影響しているとか、内村鑑三は優秀な水産学者だったとか、ホントかなーと思いつつ読んだ。

最後の方では以下のように述べられている。

「現代の世界は、グローバル化が進み、情報テクノロジーが発達したことで、人々や物の交流が盛んになり、たしかに便利にはなっている。しかし、いくら社会の合理化が進んでも、予言が力を失うことはなかった。むしろ、そうした状況だからこそ、そこに適応できない人間は無力感を感じ、彼らのあいだにはリセット願望が蔓延した。それは、現代において週末予言を蘇らせることに結びついていく」(p224)

最終章では、「ノストラダムスの大予言」がオウム真理教に与えた影響などについても扱われている。1999年7月っていうのは、自分も結構リアルタイムに「ノストラダムスの大予言」の話が話題になっていたのを覚えているので懐かしいと思うと同時に、こういう影響もあったのかーと新しい気づきもあった。

著者もあとがきでも述べているけど、どんな時代になっても未来を確実に見通すのが難しい限り、予言は力を失わない。一方で、世界の終わりが示されるような内容の予言も、その先に明るい未来があるという点で予言は希望を示すものだとも言える。そういう予言がどういった形で私たちの社会や生活に影響を与えてきたか、予言という観点から日本の歴史を概観できる一冊やった。

2015年2月22日日曜日

「赤ちゃんの心と出会う 新生児科医が伝える「あたたかい心」の育て方」で父性やだっこのコツを学ぶ

赤ちゃんの心と出会う: 新生児科医が伝える「あたたかい心」の育て方

新生児科医として40年以上の経験をもつ著者が、新生児医療の中で赤ちゃんやお母さん達から教わった子育てのヒントを、現在子育て中の方のお役に立てたいという想いから書かれた本。

子育てに一番大切なのは運動や勉強ではなく「心のやさしい子どもに育てることである」(p6)というのが主な趣旨。これだけ読むとふーんという感じやし、書かれていることも他の本でも似たようなことは言われたりしている。ただ、実際の現場、臨床経験が背景にあって、具体的な実例から語られていて内容が入ってきやすい。

キレイゴトではなく、新生児医療で結構シビアな話も。第1章の冒頭も「「赤ちゃんに愛情がわかない」と言ったお母さん」(p12)というタイトルだったり。出生前診断の話とかもQ&A形式で語られていて、著者の考えが述べられているけどあんまり押し付けがましい感じではない。

1つ印象に残ったのが、ディベロップメンタルケアの話。新生児医療では、医療的な管理や医療従事者の観点が重要視されていた。何か起きてもすぐに対処できるように照明が常についていてモニターも音がたくさん。それはもちろん大事なんやけど、そうすると、必ずしも赤ちゃんにとってはやさしい環境ではない。例えば、光が明るすぎたり、音がうるさすぎたり。そういう観点も含めてケアをしていこうというもの。

あと、赤ちゃんが泣きやむあやし方っていうのが結構実践的で参考になった(p106-112)。特に父親向けに紹介されていた。
・抱く前に赤ちゃんの目を見ながら「◯◯ちゃん、可愛いね」と話しかける。
 顔を見ながら「抱っこしようね」などと声をかけて、タオルやおくるみで体を包んで抱き上げる。
 声をかけながら静かにゆっくりと揺らす。おしゃぶりも有効。

・「全部わかっている」と思って話しかける
 話が全部わかっていると思って話しかける
 言っていることはわからなくても雰囲気で伝わる

・45度くらいの角度で抱いてゆっくりゆらす
  赤ちゃんの頭を45度くらい立てて顔を見ながら前後にゆっくり揺らす
  =羊水の中で浮かんでいたときの感覚に近づける
  
・「シー」という音を出す
 テレビの砂音やスーパーの袋のガサガサと同じようなもの。
 歯と歯の隙間から「シー」と音を出す

・視野の中に顔を入れる
 生後1ヶ月くらいの赤ちゃんの視野は商店がよく合うのは20cmくらい

書いていてなんで読みやすかったのか気付いたけど、結構父親向けの話も入っていたからかと思う。また、母親と父親の違いも踏まえつつ、共通的な土台として大事なことというところがメインの話でもある。母性の話だけでなく父性の話もあったり。

母性というとなんとなく自然に備わっているようなもののような感じでとらえてしまいがちやけど、「母性とは子育てすることによって引き出される性質」(p158)と述べられている。実例として、子どもに愛情がわかずに里子に出そうとしていた母親の方が、子供のケアをすることによって母性が生まれてきたこともあげられていたり。父性も同様で、出産前から両親学級に通ったり出産後にケアを実際にする中で芽生えてきたりと。これは自分自身もそうやったから確かになーと思った。

臨床経験や脳科学的な話などの具体的なトピックもありつつ、ベースはやはり表題にあるように「あたたかい心」の話。結局は子育てのあり方は100人100通りなので愛情をもって育てていけばというところにまとめられてしまうんやけど、新生児医療の現場でポジティブ、ネガティブいろんなケースを見てこられた方の言葉なので重みがあるなーと感じた一冊やった。

2015年2月21日土曜日

農薬から有機までバランスのとれた内容の「図解でよくわかる農薬のきほん」

図解でよくわかる農薬のきほん: 農薬の選び方・使い方から、安全性、種類、流通まで (すぐわかるすごくわかる!)

直近で農薬関連のことをやる機会があるわけでもないけど、講義の復習にもいいかなーと思って読んでみた。出版年が2014年と新しいこともあってか、思った以上にいろんなトピックがまとまっていて面白かった。

巻頭には、カラーでおもな病害虫と雑草の特徴が紹介されていて、図鑑のようにも使える。本編は、農薬とは何か、農薬防除のきほん、化学農薬だけに頼らない防除法、安心資材で減農薬、家庭菜園の防除、農薬の安全性、農薬の未来といった感じのテーマ。

スタンスとしては、農薬万歳!絶対安全!というわけでもなく、農薬危険!要注意!というわけでもない。偏ってなくてわりと客観的に良し悪しあるよねーという話。そもそもなんで必要なのか、使う時のリスクはどう管理されているのか、それを踏まえてどう考えたらいいのかということが整理されている。

冒頭にも以下のように書いてある。

「農薬とはその文字のとおり
 「農作物の保護に使う薬」のことである。
 人間が、病気やケガをしたときに薬を使うように
 植物も、薬を必要とするときがある。
 当然、安全に使うためには、
 用法・用量をきちんと守る必要が有る。
 この本は、農薬を使う人はもちろん、
 農作物を食べる人にも知ってほしい
 農薬の「きほん」を集めた本である」(p6)

表現や説明もわかりやすい。例えば、なぜ農薬がそもそも必要なのかという話では、「品種改良で武装解除された農作物」(p52)といった表現。植物はそもそも進化の過程で草食動物や病原菌から身を守るために忌避物質や有毒物質で武装してきたが、それが人間にとっても好ましいものではない。それを避けるように改良したもので、かつ、栄養価が高いものというのは虫や病原菌にとってもおいしい。そこでどう防除するかというところで農薬の必要性が出てくる。

最古の農薬の記録は1600年に出雲(島根)で書き残されたもの。アサガオの種子、トリカブトの根、樹脂の化石、樟脳、ミョウバンを組み合わせたものをいぶすか、煎じた液を散布することでネキリムシやウンカが退治できたという。他にも、1670年に筑前(福岡)では、鯨油を水田に注入して害虫を窒息させるとかいう方法も紹介されていたり。

農薬というと、近代的な化学農薬みたいなイメージがあるけど、品種改良と一緒で昔から発想としては脈々としてやられてきたものでもあるということがよく分かる。それがやりすぎになったらいろんな歪みが出てくるとは思うけど、結局自分たちが植物食べて生きていくためには、虫や菌を防ぐ技術はなんらかの形で必要で、その面で何がいいのかというのは要はバランスの話になるのかなーと思った。

冒頭の比喩にもあったように、人間でも病気になったときに薬に頼りたがらない人もいれば、どんどん使う人もいる。そのへんは好みの問題とかもあるけど、先入観でなんとなく危ないとかではなく、どういう背景でどの程度のものが必要でそれにはどんなリスクがあるのか、そのへんを踏まえて判断できるといいよなーと思った(どのみち100%確実なことっていうのはないので最終的にはエイヤの判断になるところはあるとしても)。最後の方でも「農薬を過剰に怖がらない」(p150)という話もあった。

他には、病害虫発生の3要因(主因、素因、誘因)とかの基本的な構造の話とか、IPM(総合的病害虫管理)、生物的防除、物理的防除、耕種的防除とか、化学農薬に限らないテーマもおさえられとった。化学農薬以外に防除に使えるものもいろいろ紹介されていて、例えば石灰や米ヌカとか。砂糖や水あめも補助的に使うと有効みたいな話もあって興味深かった。

その他、家庭菜園における防除や法制度の話など。法律に関しては、有機農業推進法の話や減農薬の話もあってバランスがとれている内容に感じた。末尾には農薬や病害虫について調べるときに役立つサイトの一覧もあって、巻頭の病害虫一覧とあわせると参照用としても使える内容でいろいろトピックスを確認したいときには手元にあると便利な一冊かもなーと思った。

2015年2月1日日曜日

「盆おどる本 盆おどりをはじめよう!」で感じる盆踊りの広がりと可能性

表題もさることながら、装丁に目をひかれて手に取ってみた。盆踊りについての入門書。

本書の最初の方にも書いてあるけど、盆踊りについての入門書やガイドブックは不思議なことにほとんど見つけることができないらしい。そんな中で、盆踊りとはそもそも何なのか、各地での広がりはどうなっているのか、時代にあわせた新しい動きにはどのようなものがあるのかといった内容。

コラムとシュールな画風(しりあがり寿っぽい)の漫画とが交互になっていて、コラムの部分は雑学的にも面白いし、漫画はあまり考えずに読める感じで盆踊りの楽しみ方みたいなものがテーマなので、気楽に楽しく読めた。

盆踊りの由来については、「仏教から由来するものと、仏教以前からの精霊や地霊、祖霊などを供養して、おもてなしをするという2つの要素」(p21)があわさったもので「さまざまな悪霊が災いをもたらさないように踊りの輪の中に巻き込んでともにおどるのは、人間が生きていくために無意識のうちに行われたもので、盆踊りの起源に最も近いもの」(p21)と思われるということ。

仏教由来の話については、一遍上人の踊り念仏の話につながり、一遍上人の足跡が残る地域では盆踊りが盛んに行われているらしい。一遍上人のことは歴史の教科書でも習ってはいたけど、盆踊りとつながっているということで急に身近な感じがしてきた。だから広まったのかなー。

面白かったのが、ハワイでも盆踊りが盛んに踊られていて、BON DANCEと呼ばれているということ。結構盛大に催されているということ。人気が高いものとしては「フクシマオンド」があり、これは福島からハワイへの移民が多いことが背景にあるという。しかも、福島の「相馬盆踊り」を見に行くと、ハワイでも福島でも踊りがまったく同じだということ。

それで、日本以外の国で盆踊り的なものがあるかどうかというと、祖霊信仰が薄いヨーロッパでは見当たらない一方で、アメリカ大陸などのモンゴロイド系少数民族では年に1度祖霊を供養するようなお祭りを開くことが多いという。リオのカーニバルもその一種と言われていてびっくりしたけど、あれは華やかな衣装を身にまとって神霊に変身してご先祖様や土地神様に感謝しているという。

また、盆踊りの歌詞には土地の名前やお城などのランドマーク、名物や伝説が読み込まれていて、盆おどりを通じてその土地の歴史や文化にもつながってくる。踊る格好は地元の繊維や呉服産業とつながり、食べ物は地元の美味しいものとつながっている。秋田の西馬音内なら蕎麦、郡上おどりだと鮎の塩焼きという感じで、生活文化や環境が盆踊りにも反映されてくるということ。

印象に残ったのが宮城の松島の話。もともと700年続くお盆行事があり、その前夜祭として花火大会があったが、いつしかその花火大会がメインイベントに。震災後、花火大会の開催が難しいという話が出てきたが、その際に、本来観光イベントではなくて夏祭りでそれこそ供養行事なので中止はおかしくないかということで、有志が集まって原点回帰の方向で盆踊り会場を約30年ぶりに復活したということ。そうすると、地元の人も環境客も一緒になってふれあいや思い出が生まれる。

実行委員長の方の言葉が以下。

「やってくうちに、イベントと祭りは違うんだということや、主役は花火じゃなくて「人」だったんだとわかってきました。そうして見えてきた地元の暮らしや文化と観光の距離をいかにして縮めていくか。たとえば、民謡の歌い手が高齢化しているので松島生まれのジャズボーカリストが民謡を熱唱したり、世界中から来ている東北大学の留学生を招待して浴衣を着せて、地元のおばあちゃんたちが踊りを教えたり。松島でしか見られない、磨き込んだローカリティを広く世界に発信していくことが、これからのチャレンジかなと思います」(p111)

その他、神奈川の藤沢市ではヒップホップの最先端にいるミュージシャンが、即興性や韻を踏むことや地元のことを歌に取り入れるというところで共通点があるということで盆踊りに興味を示しているとか、音頭取りっていうのはプロもいる(いた?)とか、興味深い話もいろいろあった。

何の気なしに読んではいたけど、盆踊りの持つ広がりや可能性を感じる一冊やった。

2015年1月13日火曜日

「年賀状の戦後史」から日本の戦後史を概観できる

年賀状の戦後史 (角川oneテーマ21)  

郵便学(郵便資料を用いて国家と社会、時代や地域のあり方を読み解く研究)についての執筆・講演活動を行っている方が年賀状をテーマに書かれた本。もともとは専門誌に発表した内容やけど、それが絶版になっちゃってAmazonでも高値がついているということで、一般向けにまとめ直したということ。

時代としては終戦から昭和期が中心で、平成に入ってからの話はトピックス的に少しだけ触れられている。読んでいくと、「年賀状と年賀はがき・切手の歴史は、日本社会全体の歴史と密接に結びついている」(p6)ということがよく分かる。年賀状は単に年始の挨拶の交歓という話ではなく、いろんな面で社会の状況とも関係している。年賀状の歴史をおっていくだけでも時代の流れがまた違った側面から見られて結構面白い。

例えば、まず面白かったのが年賀切手の題材の話。切手の題材に何を用いるかということで当時の社会状況が反映されていたりして、干支は迷信だとして廃止すべきというような論争もあったという。これに関しては一時干支は使われなかったものの、根強く残り結局復活している(ちなみに1968年の年賀切手の題材はわが郷土宮崎県の延岡市の「のぼりざる」が扱われたということ)。

また、大臣が地元に関連する題材の切手を発行させて実績にするという「大臣切手」という話題も(ちなみにその源流には小沢一郎さんの父の小澤佐重喜に求められるということも紹介されている)。

切手の題材には各地の郷土の玩具が扱われたりしていて、本書でも各年の題材が紹介されているけど、それぞれの玩具の由来を読んでいくのも雑学的にも面白かった。例えば、「こけし」のモノ自体は前からあったけど、名前が「こけし」に統一されたのは、1939年に開催された全国こけし大会でのこととか。

他に切手関連で言えば、自分は直接的に経験はしてないけど、以下の話は印象深かった。

「もはや忘れられつつあることだが、昭和三十年代から四十年代にかけて、切手ないしは切手収集というものは、日本の社会構造の中で確固たる地位を占めていた。人気のある記念切手の発行日には郵便局に行列ができ、子供も大人も発行されたばかりの切手を入手できたか否かで一喜一憂するなど、多くの日本人が切手に振り回されて生活していたことは紛れもない事実である」(p7)

自分らの世代でいうと、ファミコンとかたまごっちとか、今で言えば妖怪ウォッチとかそんな感じやったのかなー。

また、東京オリンピックに向けて寄付金付きの切手が発行されたという話も出ていたけど、これから2020年に向けて同じようなことが行われるのかなーと思ってみたり。ちなみに当時の法律では切手の寄付金をオリンピックに充てることはできなかったので立法措置もとられたという。

その他、高度経済成長の時代においては、国鉄のストに匹敵するような激しさで全逓信労働組合の年末闘争が行われて年賀状や郵便物の配達にも遅延をきたして国民生活に影響が及んだり、オイルショック後の郵便料金の値上げを年賀状シーズンの前にするか後にするかで国会が紛糾したり、年賀状を印刷することをきっかけに機器(ワープロ、プリントゴッコ等)の普及が進んだりと、単に郵便の話にとどまらない。

年賀はがき関連ビジネスも流行ったみたいで、手法としてあったのが民間業者が年賀はがきを買って絵などを印刷をし、その分上乗せして高く販売するやり方。当時そうした業者が年賀はがきを買い占めて一般の人が買えなくなり、高い印刷済みはがきを買わざるを得なくなったみたいで問題化。そうしたことも受けて、元から絵入りのはがきが発行されるようになったということ。なんとなく絵入りのはがきを買ったりしてたけどその背景にはこんなことがあったとは。

他にも興味深いのが、NIHONかNIPPONかという話。1964年に万国郵便連合の規則が新しくなったけど、その際に郵便切手に国名を表示する必要が出てきた。その時に乗せる文字としてNIHONかNIPPONかということが議論になったという。郵政省が文科省国語科に照会したけど煮え切らない答えが返ってくる。最終的にはNIPPONになったけど、本来はNIHONだという批判が後を絶たなかったという。今ではスポーツの応援とかでは「ニッポン!」というのが馴染んでる気がするけどそういう議論もあったんやなーと思った。

もう1つ面白かったのがお年玉はがきの由来。これは1950年の分から始まったということやけど、そのアイデアは民間の方からきていたという。京都在住で大阪で雑貨店を経営していた方が考案してそれを近くの郵便局に持ち込んでそれがだんだん上にあがって採用されたという。

このこともあり、この年の販売目標は強気に設定されて現場は売るのが大変に。ノルマ達成のために局員自ら自腹ではがきをまとめ買いするケースもあり、「自爆営業」(p37)のルーツは年賀はがき発足のあたりからあったことも触れられている。

ちなみに、年賀状の由来は以下のように整理されている。

「新年に賀詞を交換する風習はわが国では古くからおこなわれてきたが、明治四年三月一日(一八七一年四月二十日)に西洋諸国に倣った近代郵便制度が発足すると、その賀詞を郵便で送るということも自然発生的におこなわれるようになった」(p4)

その後徐々に量が増えて、戦時期に落ち込むも、戦時下でも出す人はいたり、昭和21年の正月にも年賀状をやりとりしていたということ。それだけ根付いている文化やったんやなーということが改めて分かった。文化という面に関して、著者が最後の方で述べている話もなるほどなと思った。

「手紙の文面を単なる情報だと割り切ってしまえば、たしかに、電子メールや携帯電話、ファックスなどでやり取りすれば十分であろう。実際、時間と費用という点で考えれば、情報伝達の手段として、郵便は極めて非効率的で値段も安くはない。
 しかし、すべてに効率と合理性だけを優先する生活に耐えられる人間が、はたして、どれだけ存在するだろう。
 非常に簡略化して言えば、そうした理屈で割り切れない部分の集合体こそが文化なのであって、その意味でいえば、個人としての郵便のやり取りには、時間と手間がかかるがゆえに、まさに文化的な行為としての側面がある。現在なお、電報が決して消滅せず、多くの人々が祝電や弔電を利用していることを考えれば、このことはご理解いただけるだろう」(p219)

年賀状のこれまでとこれからを見すえながら、日本の戦後史を概観できた感じ。新年に読むのに良い一冊かもなーと思った。

2015年1月4日日曜日

「新版 親だからできる赤ちゃんからのシュタイナー教育」はシュタイナー教育に限らずに子育て本として参考になる一冊やった

新版 親だからできる赤ちゃんからのシュタイナー教育

3児の母でもある著者が、シュタイナー教育から学んだことや、子育てや幼児教育に携わった経験から子育てについての考え方をまとめた本。

著者は1980年にシュタイナー教育について学び始めこの本の初版を1989年に書き上げたという。その後2012年に新版として改訂されたのが本書。初版の出版後、アメリカで助産師の仕事を行った後、老年学や組織変動について修士課程で学びつつ、実母と義母の介護を行い、その後再び幼児教育と子育ての世界に戻って各種活動を行っている。

全体的な構成としては、全体的な考え方が最初の方で少し触れられた後、新生児から就学前くらいまでの経年にそって、それぞれの時期の子どもはどういう状態なのか、それに対してどういうことを手助けしてあげていけばよいかということが書かれている。

結構哲学的だったりスピリチュアルな話もありつつ、しつけ等の話では結構具体的な話が書かれている。例えば、「だめ!」と言う時にはどうするか、否定的な行動にはどう対応するか等。また、特に後半では想像力や創造性を育てることの重要性が説かれていて、最後のQ&Aではテレビや電子ゲームに関しての考え方等が扱われていて実践的。

1つ印象に残ったのは、最初の1年間に関する話。「泣いたら抱っこ」が信頼の基礎と言いつつ、一方で、「完全な育児」を行おうとすることの難しさにも触れている。以下のようにも書かれている。

「あなたがどれだけたくさん抱っこするかということは、確かに赤ちゃんに影響するでしょうが、それは自分自身の要求や感情的な安定とバランスがとれていなければなりません」(p51)

また、以下のあたりは、この前に読んだ「その子育ては科学的に間違っています」の話とも通じる部分があって興味深かった。

「あなたは自分のやり方を決めなければなりません。夜に授乳することであなたが幸せなら、変える必要はありません。けれどもあなたが疲れてしまうなら、習慣となっているパターンを変えましょう。
 赤ちゃんが夜泣いたら、あかちゃんに「大好きよ、だけど今は寝る時間」と、自分の意図をしっかり集中させて言います。おっぱいをあげず、抱っこしたり、背中をやさしく叩くだけにしておきます。赤ちゃんが泣くのを聞くのはとてもつらいかもしれませんが、三分か五分したらまた行って、「ごめんね、だけど今は寝る時間なのよ」と、とても眠い感じで言います。その後もう少し間をあけたりして、必要なだけ繰り返します。赤ちゃんは、食べ物は来ないけれども、愛情と関心は示されるので捨てられたのではない、ということを学ぶでしょう」(p53)

「家の中を、子どもにとってできるかぎり自由があり、「だめ」ができるだけ少ないように整えつつも、その後は、許されていないことに関しては頑固になるということです。
 子どもが好奇心いっぱいであることはすてきなことですが、あなたの化粧品で遊ぶ必要はありません。そういうときは、「だめ」ときっぱり言って、その場から子供を動かし、化粧品を子どもの近づけない所にしまいます。子どもを罰する必要はありません。幼児は自分のしたことを理解できないし、次のときまで覚えておくこともできないからです」(p66)

その他、しつけの仕方のところで、以下のようなポイントは心に留めておきたいと思った。

・例を見せて模倣させて教える
・やってほしい行動を子供と一緒に行う
・否定ではなく肯定的な表現を使う

例:
「手で食べてはだめ」ではなく、スプーンを持って「ごはんはスプーンで食べるのよ」と言う
「おもちゃを片付けなさい」ではなく、「おもちゃを片づける時間ですよ」と言いながら一緒に片付ける
(p109)

また、否定的な行動をした時に、無視してもエスカレートしてしまう。そういう場合には、穏やかで創造的なやりとりが効果的という話もなるほどなと思った。例えば、2歳の子どもをショッピングカートに乗せて買い物をしている時にうるさくする場合の対処法。

・カートを止めて「静かにお座りするまで、もうこのカートは動かないのよ」と言う
・歌ってあげる
・「パイナップルジュースを買うまで5つの物をカートに入れるけれども、良い子にしていたら、ジュースを買う時は自分で入れさせてあげる」と言う
・「野菜売り場でしっかり見張っていて、人参があったらお母さんに教えてね」と言う

こういうやりとりをすれば
「子どもはいらいらしなくていいのですし、私たちだっていらいらさせられなくていいのです」(p114)
ということであり、子どもに必要なのは「創造的なやりとり」(p114)ということ。

個人的には、上の例の特に最後の言葉がなるほどなーと思った。ネガティブな行動にネガティブな感情で対処するのではなく、まず自分が落ち着いた上で子どもも楽しめる方法を探して実践するということやと思う。ただ、そうは言っても実際の場面でそれができるかというと修行が必要そうやけど…頭には入れておいて思い出せるようにしておきたい。

あと、以下の話も興味深かった。少し年齢があがってきて、いろんなことについて質問した時の答え方。何か聞いている時に、仕組みや科学的な説明を求めているのではなく、目的は何かということを聞いているということ。

「たとえば、四歳の子どもが「なぜお日さまは明るいの?」と聞いたら、「木や草を大きくさせ、私たちを元気にしてくれるためよ」と答えることで、子どもは充分満足するのです。気体が燃えているとか、紫外線といった概念的な答えは、必要ではありません」(p194)

このへんは考え方によるところもあるやろうなーとは思ったけど、1つの答え方としては面白いなーと思った。その他にも、想像力や生活のリズムの大切さなどはキーワードとして頭においておきたいと思った。

最後に訳者の方があとがきで述べているけど、「「シュタイナー的な」特殊なテクニックやシステム」(p254)が大切なのではなく、基盤にある思想であり、「それは実は伝統的な社会が守ってきた子育ての知恵とも重なっている」(p254)ということ。

また、同じく訳者の方が、専門の教育機関に通ったりできる環境にあるならそれはそれでいいけど、そうでなくてもコアにある知恵を活かすことはできるのではとも述べている。

この本の内容自体もたぶんシュタイナー教育に関する専門的な内容というよりは、子育て全般に関して著者の経験からの考え方を紹介している感じやけど、根底にある考え方とかは参考になるところがあって、シュタイナー教育に限らずに子育てに関する本の1つとして読んでみて得るところのある一冊やないかなーと思った。