「日本人は状況から何をまなぶか」
鶴見俊輔さんが雑誌や新聞に書いた記事等の文章集。「おそらくこれが自薦の最後の文集にあたる一冊」(p125)と述べている。
あとがきで書いているけど、90歳に近くなって人生の終わりを意識しつつ、まだ自分の文章を読むことができるということで後期文集として編んだのが本書ということ。
冊子自体は125p程と薄く、1つ1つの文章は比較的短めで、文章自体は読みやすい。ただ、中身のテーマが様々で、かつ、著者のこれまでの研究等が背景になっていたりするので、なかなか理解が及ばないところもあった。著作集の一部として読むのには良さそう。
印象に残ったのが以下の2つ。
■倫理感覚
1つ目は倫理感覚について。
「倫理を考えるとき、ひとつの大道があり、その道を自分は歩いていると考えることにあやうさがある。正義をうたがいなく信じる正義家を、私は信じない。そういう人になるべく近づきたくない。仕方なくともにあゆむことがあっても、その人にこころをひらきたくない。それが、こどものころから戦時をとおり、五〇年の平和をとおって、私の中にある倫理感覚だ。」(p14)
自分が大道を歩いていると思っている人はおそらく自分が間違っているとは思わない。基本的に他人が間違っていると考えると思う。
これは別に倫理に限らず、仕事上のコミュニケーションとかでもそうやけど、自分が正しいと思っている人とつきあうのは大変…
戦争体験を経ていたり、転向の研究をしてきた著者の言葉なので重みがある。自分も結構自分の主張をガーッって言っちゃう方やけど、どっかの時点では自分の考えや感覚を相対化できるようにしておきたいと改めて感じた。
■部分しか見ない
もう一つが政権批判に関して、視野の狭さ、時間感覚の薄さについて。
「なるほど、菅総理大臣の答弁は、なまぬるい。
しかし、今回の事故は民主党政権に先立つ、長期間にわたる自民党政権が用意し、実現したものである。そのことさえも一時的に忘れて、テレビ、新聞は現政権批判に熱中する。
この論調は、入学試験の○×式答案に向けて集中する、日本近代の勉強のやりかたからきていると思う。大正の末から日本の新聞は、大学卒業者を採用の条件とするようになった。そのせいでもある。私たちは時間を薄切りにしてとらえる習慣になれてしまった。」(p63-64)
政権批判のされ方を見ていると、全体的な構造とかよりも、その時々で誰々が何をした、何を言ったっていう部分部分の話にフォーカスが当たっていることが多いように思う。
しかもそれが枝葉末節のことで本筋からは外れたりしていることも少なくない。こういった論調を日本近代の勉強のやりかたと結びつけて著者はとらえている。
これがどのくらい妥当するかは分からんけど、確かに学校教育での○×式の分かりやすい区分の仕方をそのまま他のものにも当てはめてしまっているのかもしれんなーと思った。
これも上の相対化の話とも通じるところがあると思うけど、全体観を持って是々非々で物事をとらえられるようにしていきたいなーと思った一冊やった。
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