2012年12月11日火曜日

「中村屋のボース」にかける著者の想いや愛が伝わる入魂の一冊

中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義 (白水Uブックス)

ラース・ビハーリー・ボース(R・B・ボース)という人物の評伝。評伝なんだけど、膨大な資料や関係者の話を集めた上で書かれているので、物語のように読めるし、何より著者のボースという人物への愛情が伝わってくる入魂の一冊。

R・B・ボースは、1880年代にインドで生まれ、1945年という終戦の年に日本で亡くなったインドの独立運動に指導者。

また、現在、新宿にある中村屋に「インドカリー」を伝えた人でもある。中村屋の娘さんとも結婚し、日本にも帰化し、日本から独立運動を展開していった。

著者は、この人物の一生をみていく意義について次のように述べている。

「一杯のインドカレーの伝来物語をはるかに超えた壮大で重たい問題を、彼の一生が背負っている」(p13)


■著者の想い
あとがきで、著者は次のように述べている。

「私の二〇代は、この本を書くためにあったと言っても過言ではない」(p391)

確かにこの想いが感じられる内容。大学生の時に、R・B・ボースの娘さんのところをたずね、貴重な遺品の数々を借りた話がエピソードとして詳しく紹介されているが、他にもR・B・ボースの足跡を訪ねて世界中を歩き回っている。

インドで活動したほとんどの場所を訪れ、関係者とも会い、デリーで爆弾を投げた場所にも行き、育った場所や通った学校にも行っていて本に写真が掲載されている。

また、東京の赤坂でビジネスマンたちの冷たい視線を受けながらR・B・ボースが中村屋まで逃走したルートを実際に走ってみたり、原宿の家から新宿中村屋への通勤ルートも繰り返し歩いてみたりと、少しでも風景を追体験できるように努力を重ねている。

著者は、「私の人生の問いそのものであり、共感と違和感が交錯する複雑な対象でもある」(p391)と述べており、著者の「学術的探究心を超えた彼に対する愛」(p391)が感じられる。

一方、R・B・ボース万歳という褒めそやすだけの文章ではなく、思想や活動の限界や課題もあわせて指摘されている。

「日本の膨張主義を看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げようとした点に、どうしても引っかかりをおぼえ」、「日本に亡命し帰化した彼には、そのような道しか選択の余地が残されていなかったのだろうか」という問い」(p385)を何度も著者自身考え直したとのこと。

はっきりした答えは示されていない感じやけど、それは読者一人一人に投げかけられている気がする。

以下、本書で紹介されているR・B・ボースの一生の中から特に印象に残った点について。


■インドでの独立運動と日本への脱出
自分はなんとなく名前は聞いたことはあったけど、どういう人物だったかとかどういうことをやっていたのかという詳しいことは知らなかった。

この本では、生い立ちから日本での生活、独立運動の展開、言論、思想、そして臨終の様子まで丁寧に描かれており、それらの点がかなりイメージできるようになった。

元々はインドの役人として仕事をしている傍ら、裏で独立運動を行っていた。時のインド総督ハーディングに爆弾を投げつけたテロ事件を実行したのもこの人やったとのこと。

その後も一定期間はイギリス政府にもばれずに運動を続けていたけど、結局発覚してしまい、1915年に偽名を使って日本に脱出。ちなみにその時にはノーベル文学賞受賞者のタゴールの親戚と名乗っていたらしい。

国外退去命令を下されるも日本のアジア主義者たちに助けられ、新宿にあった中村屋にかくまわれる。


■中村屋の夫妻の覚悟
中村屋の主人の相馬愛蔵は、従業員に対して次のように述べたとのこと。

「もしも大切の預かり人をわれらが護りおおせなくて、むざむざ死地におとすことがあったら、中村屋の恥はもとより日本人の面目が立たない。どこまでも血気の勇はつつしんで保護のまことを尽くしてくれ」(p132)

また、愛蔵の妻、相馬黒光は、政府に知られた際は自分が一切の責任をとって牢獄に入る覚悟であったということ。

「日本を頼ってはるばるインドを脱出して来て、日本に一身を託した亡命者を、政府は見殺しにするがわれわれはこれを保護する」(p131-132)

この心意気がすごい。


■恋と革命の味
その後、各地を転々。計17回も引っ越しをしたらしい。

日本での地下生活を続けるにあたって、誰か連絡をつなげるのに手足として動きやすい人間が必要ということで、その中村屋の娘さんと結婚することに。

ただ、事情が事情だったので、娘さん本人に親御さんも覚悟の程を問うてから最終的に決定。結婚式は両家の親戚も呼ばれずひっそりと行われ、新婦も会場となった頭山満の家までは普段着で行ってからその後花嫁衣装に着替えたらしい。

こうした経緯での結婚だったので、当初、ボースは本当に愛されているのかと信じることができず、千葉の海岸の家で静養している時に奥さんに問い詰めたという話が紹介されていた。

「ほんとうに私を愛しているのか、それならしるしを見せてほしい。私の前で死んで見せてほしい。そこの欄干、そこを飛んで見せられますか」(p168)

と言ったところ、奥さんが意を決して本当に飛ぼうとしたのでそれを止めて抱きしめた。こうしたことを経ながら傍目にも仲睦まじい夫婦になったということ。

その後、奥さんが先に亡くなるが、R・B・ボースは同じ愛情を他の人に感じられないといって再婚をすすめられても断っていたらしい。

こうした中村屋とのつながりが後々になって新聞等でもとりあげられ、中村屋のインドカリーは「恋と革命の味」と言われたらしい。

ちなみに、そのインドカリーは「インド貴族の食するカリーは決してあんなものではない」(p175)ということで、西洋経由で入ってきたカレーに不満を抱いていたR・B・ボースの想いから発案されたものとのこと。

素材にもこだわり、毎朝のように検食していたらしい。これは、単にカレーを広めたいというだけでなく、独立運動にもつながる意味をもっていた。

「R・B・ボースにとって、本格的な「インドカリー」を日本人の間に広めることは、イギリス人によって植民地化されたインドの食文化を、自らの手に取り戻そうとする反植民地闘争の一環であった」(p176)


■現実主義の苦悩
日本で言論活動を展開しながら、R・B・ボースは、アジアの時代を目指すと同時に、アジア解放には日本、インド、中国の連携が不可欠と訴え、日本がアジア主義において指導力を発揮することを期待していた。

ちなみに漢字かな交じり文を書くのは難しかったものの、長時間の演説をするほど日本語は達者だったらしい。多くの言論も日本語で発表されている。

しかし、その期待に反し、日本は中国を植民地化していき、結局R・B・ボースが批判していたイギリスをはじめとする西洋の帝国主義国家と似たような道をたどり始める。

これを受けて、R・B・ボースは

「日本よ!何処に行かんとするか?」(p205)

と述べて、当初は批判を展開するも、R・B・ボースの意に反し、日本の帝国主義的な動きは加速。

結局、インドの独立解放を目指して現実主義をとり、日本の帝国主義にも柔軟にも対応するようになる。

これにより、日本の要人との連絡は保たれ、政治的影響力を発揮できるようになるが、日本の帝国主義に対する批判は影をひそめ、インド本国の独立運動に関わる人々との溝が広がっていく。

1936年初頭になって、次のように悩んでいたらしい…

「おれは今年五十歳だ。五十になるまで、なにひとつ出来なかつたじやないか。インド独立の目あてもつかない。これからの運動を、どうしていいのかも分からない。全く情けないことじやないか」(p280)

それでも日本での影響力を活用して独立運動を支援したり、会議を開催したりして運動を広めようとしていく。しかし、「日本の操り人形」といった批判をやはり受けてしまう。

最終的には、チャンドラ・ボースに指導的立場を引き継いだ。引き継ぐ時には立場に固執せずお互いに抱擁しながら熱く語りあったらしい。


■R・B・ボースの思想の持つ現代的意義
R・B・ボースは活発に言論活動における主張のポイントとしては、インドの独立、反植民地主義、アジアの連携といったところ。

著者は次のように整理している。

「R・B・ボースにとってのアジア主義は、単なるアジアの政治的独立を獲得するためのプログラムなどではなく、物質主義に覆われた近代を彫刻師、宗教的「神性」に基づく真の国際平和を構築するための存在論であった。彼にとっての「アジア」とは、単なる地理的呼称などではなく、西洋的近代を乗り越えるための思想的根拠そのものであった」(p195)

つまり、単に独立運動だけにとどまらず、西洋的近代を超えるためにアジアを基盤に考えていくことが重要で、特に、東洋の精神主義で西洋の物質主義を指導すべきと考えていたとのこと。

その中では、「愛」や「宗教」といったキーワードが重要視されている。関連して、R・B・ボースは、日本の皇紀2600年記念事業として、日本に国際精神文化大学の創設を提案していたことも紹介されている。

この大学に研究者や学生を集め、世界各国の精神文化の研究、教育を進めることを提言しており、政治・軍事的な運動だけでなく世界の精神文化による人材育成にも強い関心を持っていて、自ら留学生宿舎も運営したとのこと。

ただ、著者は、R・B・ボースの西洋認識がステレオタイプで単一的であり、西洋の宗教・文化の多様性をみていないということもあわせて指摘している。

さらに、R・B・ボースの主張や思想における課題として、著者は、西洋的な近代を超えるために東洋的な精神を広めるには、近代的な手法を用いなければならないというジレンマを挙げている。

これは、ボースに限らずアジアの思想家たちに共通する課題でもあり、「アジアの時代」と言われている今においても意義も大きいのではと述べている。

確かに、「アジア」という視点で日本の役割について考える際に、R・B・ボースが日本に対して抱いていた期待やその思想を振り返ってみることは1つの足がかりになる気がする。

中村屋のインドカリー、以前に一度だけ食べたことがあったけど、その時は何も思わずに普通に食べてたなー。高いなーとしか思わんかった(^^;)

でも今度はボースの一生に想いを馳せながら食べてみたら、「恋と革命と味」がするかもなーと思った一冊やった。

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