2012年12月3日月曜日

ウナギのことだけでなく研究の社会的意義やリーダーシップなどについても学べる「世界で一番詳しいウナギの話」

2009年の夏に、ウナギの卵を世界で初めて採集することに成功した研究者の方がウナギのことや研究のことについて書いた本。著者のウナギ愛と研究愛が伝わってくる一冊。

著者は、東京大学海洋研究所(当時)が1973年に研究船でウナギの産卵場調査に乗り出した時に大学院生だったそうで、第1回の研究航海に乗船し、それから40年以上も研究を続けているとのこと。

本書の意義として、著者は、研究やポストに悩む若い研究者や大学院生に対して、「今後の進路選びに、少しは参考になるのではないか」(p8)と述べている。

また、次のようにも述べている。

「自然が好きな人、生き物が好きでしょうがない人、魚釣りが趣味の人、海をこよなく愛する人へのメッセージでもあります。
それに、毎日が面白くない人、ただぶらぶらしている人、何にも興味が持てない人、真剣になるものがない人にも、ぜひ読んでもらいたいと思います」(p8-9)

そうしたところから、ウナギ研究の詳しい話だけでなく、研究の面白さや社会的意義についての考え方等の話もあって、そっちも結構面白かった。


■ウナギやアユの秘密
秘密というか、別にウナギやアユは秘密にしていたわけではなくて、研究で明らかになったことなんやけど、結構知らんことで面白いことがいっぱいあった。

ウナギの一生
まず、メインのウナギの話。大学の水産実習の時かなんかになんとなく聞いたこともある話もあったけど、ウナギの生態って不思議がいっぱい。

そもそも、ウナギの99.5%は養殖。そして、養殖といっても元は天然のシラスウナギ。完全養殖のサイクルは技術的にできなくはないけどまだ商業ベースにのるようなものにはなってないらしい。

産卵場所とか成長のメカニズムはまだよく分かってないことも多いし、最近までは産卵場所すら分かってなかった。どこで産卵するんかっていうとマリアナ諸島沖。

その後、孵化したウナギは海流にのって日本沿岸にたどりついた後、河口で淡水に身を慣らす。そして、川を遡って、川の中流や湖で5-10年(!)もかけて成長。

成長した後は、今度は川を下って太平洋に出て、生まれたマリアナ諸島沖に移動して結婚。それも、ばらばらに産卵するのではなく、特定の日に特定の場所に集まって相手と出会う。

著者の表現もちょっと面白い。

「親ウナギたちは好き勝手な時期に産卵しているのではなく、夏の新月の晩に一斉に「合同結婚式」を挙げていることになります」(p138)

トータルの回遊距離は数千キロにも及ぶとのこと。はー、長いなー。

他にも、日本の研究者がフィリピンでウナギの新種を発見したとか、ウナギは犬なみの嗅覚を持っているとか、二回産卵するとか、日中は深いところにいて夜はわりと上の方にいるとか鉛直方向に移動しているとか、いろいろ興味深い話があった。


琵琶湖のアユのスイッチング・セオリー
他にも、琵琶湖のアユの話でスイッチング・セオリーと名付けられた話が面白かった。

大きなアユと小さなアユがいるらしく、それぞれ大アユ、小アユと呼ばれていてサイズや体型だけでなく行動パターンや産卵期も違う。

でも、遺伝的な差異はないらしい。単に産卵期や成長率の違いによって生じた二型とのこと。

しかも、大アユと子アユが一年ごとに交代していて、これをスイッチング・セオリーと名付けたらしい。まだまだ分かってないことや不思議なことはいっぱいあるなー。


■ネガティブ・データの大切さ
ウナギの話とは別に、研究に対する取り組み姿勢のところで興味深かったのがネガティブ・データの大切さの話。

「グリッド・サーベイ」という調査手法に関連して紹介されていたけど、この手法は、格子状に線を引いて、その交点ごとにかたっぱしから標本を採集するやり方。

この時、グリッドの幅や場所はある程度絞り込むものの、グリッド内では採れる採れないに関わらず無差別に調査する。

採れるポイントに集中して調べれば良さそうなものの、全く採れないポイントも含めて調査することが大事だというのが著者の主張。

どこで採れて、どこで採れないかが明確になれば、次のテーマが明確になるという話。

「「こんな珍しい生物が採れました」とか「こんな興味深い現象を発見しました」というニュースや論文はよくみます。しかし、「これこれの調査をしましたが、採れませんでした」とか「こんな条件で実験しましたが、興味深い結果は得られませんでした」という場合はまったくニュースにはなりませんし、こうした結果だけでは、多くの場合、論文にもなかなかすることができません。「ここでは採れませんでした」と言っても「ああ、そうですか」でお終いです。「採れた」「発見した」という結果をポジティブ・データというならば、「採れなかった」「発見できなかった」はネガティブ・データと呼びます。しかし、論文になかなかしづらくても、科学の世界ではネガティブ・データをきちんと収集することが大切です。
 何かを追求する時、最初の段階ではほとんど手掛かりがありませんから「だいたいこのあたりじゃないか」とカンでアタリを付けます。これはよくあることで、当たれば効率のよい探し方だったことになります。
 しかし、それで見つからなかったら、別のアプローチをするのも一法です。地味だけれどこつこつデータを横み上げて、客観的判断に委ねる科学的方法です。「ここにはいない」「ここにはいた」という数多くの情報を集積していく。それらの情報を総合すると、どこにいて、どこにいないか、分布をはっきりつかむことができるようになります。時間と手間のかかる話ですが、多くの場合、研究の実際とはそういうものです。」(p104)

実際の研究の話を読んでいってもそれを徹底している。例えば、ある年に別の団体の船と共同調査を行った時の話。

著者の船ではウナギの卵を探し、別の団体の船では親ウナギを探していたところ、そちらから親ウナギが採れたという連絡があった。

親ウナギがいる近くに受精卵も漂っている可能性もあるので、すぐにそちらの船の方に移動して卵を狙ってみたいと思ったものの、今やっている海域の調査を徹底してやり抜いた。

それは、元々想定していた海域で卵が採れるかもしれないという理由の他に、ネガティブ・データが大事という理由もあった。

著者は次のように述べている。

「たとえ、卵が採れなくても、この年この日、このスルガで産卵は確かになかったということを確かめなくてはなりません」(p212)

そして、採れないことを確認した上で、親ウナギ捕獲の地点に急行したということ。

アタリをつけるという意味での仮説設定や絞り込みは大事やけど、それと同時に、仮説を定めたら一旦はそれにしたがって徹底してやり抜く、その上で結果をみて次のステップに進むということが大事やということかと思う。

これは研究に限らずビジネスでもなんでも通じるなーと思った。


■研究の社会的意義
もう1つ興味深かったのが、研究の社会的意義の話。これは著者の語りをぜひ読んでほしい。

「昭和四二年、いまから四五年も前、私が大学に入学した時のことです。「太ったブタよりも、痩せたソクラテスになれ」という言葉で有名な、東京大学の大河内一男総長(当時)が、新入生のための記念講演で、次のような話をされたのをおぼえています。
「桜の葉の柄には、蜜腺と呼ばれる小さな突起があって、そこに糖分が溜められている。何のために、桜はそんな突起を持っているのか、わかっていない。私の甥っ子は、その突起の研究を何十年も続けている」
 「何の役にも立たないように思えることでも、興味があればコツコツと取り組む。大学はそんな研究ができるところだ。もしかしたら五〇年後、一〇〇年後、偶然にも、それが役に立つ時がくるかもしれない」
 学生のときは、「へ~、そんなものかなぁ」と思っただけでしたが、今はよく分かります。
ところが最近では、大学の研究者ですら、研究の意義や社会貢献を問われます。ウナギの産卵場調査も例外ではありません。新しい発見がある度に、メディアがやってきて「この発見の意義はどういったものでしょうか?」と問いかけます。
まずはにこにこと笑いながら、「ウナギの産卵生態の解明に向けて大きな一歩となりました」と返します。
 すると一部のメディアは、少しイラッとして、さらに追い打ちをかけてきます。「産卵生態が解明されると、どうなります?」
今度は少しばかり胸を張り、「古代ギリシャの時代から二四〇〇年も続いてきた謎が、ついに解き明かされることになります」と答えます。
それでも納得できないごく一部のメディアは、ついに堪忍袋の緒が切れて、伝家の宝刀を抜きます。「これでウナギは安くなるんですかっ?」
 こうなっては仕方ありません。「この発見で、すぐに蒲焼きが安くなるわけではありませんが、いつか安くなる日がくるのではないかと期待しています」私は冷静を装って、優等生的な答えをするしかありません。
 「それはそうなんだけど、もっと生物学的な面白さや、海洋学的な意味を聞いて欲しいなあ」 と心の中でつぶやきながら……。

 メディアと研究者の価値観の間にはいつもかなり大きなギャップがあります。メディアを社会の代表とすれば、ズレているのは研究者ということになります。
 本当のところ、多くの研究者は「何の役に立つか」を考えて研究をしているわけではありません。最初は、目の前にある不思議な現象に「あれ、なぜだろう」「どんな仕組みになっているのかな」と感じ、やがて気になって仕方なくなり、研究を始めるのです。そして、疑問が解けるまで、研究者をつき動かしているのは「知りたくてたまらない」という欲求です。
 僧院の裏庭で趣味的に栽培されたエンドウ豆の観察から遺伝学が始まり、錬金術師の暗い欲望から化学の下地が醸成されたことを思い出してください。研究はそもそも個人的なものであり、あえていうならば、社会の利害関係から切り離された「趣味」のようなものです。
 役に立たなくてもいいし、立つことがあってもいい。しかし、最近の研究は、だんだんと社会責献を強く期待されるようになりました。かなり窮屈な雰囲気の中で研究しなくてはならなくなってきました。」

仕分けの話とかを思い出すけど、研究の社会的意義について考えさえせられる一節やった。

他にも、予算や日程に制約がある中で航海のスケジュールや段取りをまとめあげていくためのリーダーシップやマネジメントにまつわる話とか、いろいろ面白い話も多かった。

ウナギのことだけでなく、研究の意義やリーダーシップなどについても学べていろんな読み方ができる一冊やった。

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