2013年2月28日木曜日

「長生きすりゃいいってもんじゃない」ということからどう生きるか考えるヒントがある一冊

長生きすりゃいいってもんじゃない

聖路加国際病院の院長・理事長を務められた日野原重明さんと、レイトン教授や頭の体操で有名な多湖輝さんが、老いや生き方をテーマに交互に書いたエッセイ集。

日野原さんは1911年生まれで執筆当時98歳、多湖さんは1926年生まれということで、テーマも「「六十五歳が高齢者」という侮辱」や「「高齢者」ではなくて「好齢者」」といったもので、世間一般で「高齢者」と言われるような年齢になってもまだまだいけますよという感じの話。

■「高齢者」のイメージを変える
すごいのが「新老人の会」を結成したという話。意気盛んな75歳以上の方を「新老人」と命名し、75歳以上の方が「シニア会員」、60-74歳までを「ジュニア会員」としたということ。60過ぎで「ジュニア」って…

この会を結成した心意気は共感できた。

「たとえ体は老化しても、精神まで衰えたと考えるのはまちがっています。
 そう考えたからこそ、精神力で心を活性化させ、生き生きとした人生を世の中に示したいと思いました。
 私たちの世代が、そういう生き方を示すことで、「高齢者」のイメージは変化します。そうすれば、次世代の人々もまた「老い」を醜いものとか汚いものとは思わなくなるでしょう」(p18)

これから日本は高齢化(さらに超高齢化)社会になっていくので、「老い」を肯定的にとらえられるようなロールモデルは大事やなーと思う。


■木の実を播いておく
1つ印象に残ったのが木を植えるという話。文字通り木を植える人の物語が紹介されているけど、主眼としては後世に何を残すかという話。

「どんなに富や名誉を手に入れたとしても、来世までは持っていくことができません。しかし、たとえば、何かの木を植えてみると、その木は植えた人が亡くなったあとも成長を続け、後世の人たちを喜ばせることができます」(p197)

これに関連して、資生堂の元社長の福原義春さんの話が紹介されていた。創業120周年の年に世界中の社員3万人全員に一冊の本を送ったということ。それが「木を植えた人」という50ページたらずのもの。

主人公の羊飼いが数十年にわたって一人で荒地に木を植え続け、荒地が次第に森となり、最後には人々が移住してきて町をつくってしまうというストーリー。

この本を送った時の福原さんの言葉がステキ。

「人生と同じように、会社も好調のとき、苦しいときを何回も何回も経験しながら、大きく育ってきました。このときに、皆さんとともに1冊の本をあらためて読んでみたいと思いました。ことばは心を選びます。私はこの本をかりて皆さんに私の心を送ろうと思います。そして私自身がこの本を大切に『木を植えた人』の心を考え続けます。私たちもいっしょに、まず会社の中に木を植え、そして会社のはたらきを通じて社会に木を植えていきたいと思うのです」(p200)

この本をどこかで読んだことがある気がするけど、とても印象に残っていたのを思い出した。子どもが少し成長したら読ませたいなーと思う。ので忘れないようにAmazonで注文しといた。

あともう一つ、日野原さんが禅の大家、松原泰道さんと対談した時に紹介された種田山頭火の句も印象に残ったので転載。

「いつ死ぬる木の実は播いておく」

自分の知り合いで林業を営まれている方がいて、まさに上記のような精神で森づくりをやられているのでこの話は一層感慨深かった。文字通りの木でなくても、社会に対して何を植えるか、何の実を播くかというのはそろそろ考えていかんとやなーと思った。


■人生の別れ
日野原さんがいつも話されるという人生の別れについての話。人生の別れを6つの集約して、それらがいかに新しい出会いに結びつくかを話されているとのこと。6つの別れとは以下。
  1. 会社・仕事との別れ
  2. 肩書き・地位との別れ
  3. 人(仕事関係)との別れ
  4. 情報との別れ
  5. 家族との別れ
  6. 健康との別れ
新しい出会いというのは、例えば、会社や仕事でやることがなくなったらむなしく思えるかもしらんけど、その分で自分の自由度が広がり、新しいことができる時間や余裕ができるという話。

確かに、会社に所属していたり、仕事をしていたりすると、自己紹介する時にそこが起点になったりするけど、それらと別れた時にどうなるのか、どうなっていたいのかというのは考えておいた方がうろたえずに済む気がする。

また、「葉っぱのフレディ」の紹介に関連して以下のように述べられていた。

「私たちの人生にも、フレディと同じく四季があります。春から夏、夏から秋になり、やがて冬になって初めて死を感じるのです。しかし、冬になって考えるのではなく、若葉のころから死について学んでいけば、おのずと生き方そのものが変わるでしょう」(p153)

自分はまだ時間があるけど、今の段階から「高齢者」になった時のことを時々でもイメージしておくと、考え方やとる行動も変わってくるかなーと思った一冊やった。


2013年2月27日水曜日

「引っかかる日本語」からコミュニケーションのコツまで学べる一冊

ひっかかる日本語 (新潮新書)

タイトル通り、毎日の生活の中で著者が「ひっかかる」日本語やコミュニケーションについて書いた文章をまとめたもの。元々はWebの連載で、1つ1つの章は短めでいろんな話題が扱われている。

最初の方が「ひっかかる日本語」について、いろいろな言葉についてどう引っかかるのかといった話が展開されているけど、途中からはコミュニケーション一般の話でむしろこっちの内容の方が良かった。

ひっかかる日本語の話は、それはそれで1つの視点としては分かるけど若干いちゃもんのような感じがする。むしろ、途中からのコミュニケーション関連の話は、さすが元アナウンサーという話のプロとしての視点が活きていて面白かった。


■ひっかかる日本語
「ひっかかる日本語」として紹介されているのは、例えば以下のようなもの。
「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」

これについて、著者は、実際に行動をとる前に先取りして感謝をしている強引なコピーだと断じている。例えば、誰かと飲みに行った時に勘定の前に、「いつもおごってくれてありがとう」と言われたら、「それって、俺に払えってことか!?」とちょっとむかつくのではと述べられている。

ただ、こういうのは定型文のようになっているので、著者自身も引っかかる方がひねくれているのかもしれないとは認識している。

こんな感じでたくさん例が並べられている。気にし過ぎと言えば気にし過ぎと思うけど、普段何気なく通り過ぎているものも多いので、なるほどと感じるものも結構ある。

例えば、「0」を「ゼロ」と読むか「レイ」と読むかとか。「ゼロ」は英語、「レイ」は日本語らしい。言われてみればなるほどと思うけど知らんかったー。

あとは「1LDK」は「ワンエルディーケー」なのに「2LDK」はなぜ「にエルディーケー」なのかとか。どうでも良いと言えばどうでも良いけど、こういうのを突きつめるっていうのはそれはそれで学べるところもある。


■脱帽する日本語
第1章の「ひっかかる日本語」に続いて第2章は「脱帽する日本語」という話。話し上手、質問上手等コミュニケーションがうまい人はどこがすごいのかという話が具体例を挙げて語られている。

個人的には第1章よりもこっちの方が断然面白かった。第1章がしっくりこない人でも第2章はオススメできると思う。

具体的な話の内容は、例えば、池上彰さんの説明はなぜ分かりやすいのかとか、吉田豪さんはなぜ相手の話を聞きだすのがうまいのかとか、カリスマキャバクラ嬢は何がすごいのかとか。


■相手を好きになって肯定する
特に吉田豪さんのインタビューの手法の話は面白かった。まずは、事前取材で徹底的に相手のことに関する資料を読み込み、自分にとって「ここはおもしれーなあ、好きだなあ」と思えるところを見つけておく。

その上で、インタビューでも相手の良いところにフォーカスする。吉田さんは次のように述べているとのこと。
「僕のインタビューは、相手の良いところを徹底的に探して、そこを肯定していく作業です」(p108)

著者の梶原さんは、これはまさにカウンセリングだ!と述べている。相手が突飛な話をしてきても、それを否定するのではなく面白がってのっかっていく。しかもそれを心からやる。

だからこそインタビューされている側がいろんな話をするのかということが分かって参考になった。


■質問でクレームを防ぐ
もう1つ印象に残ったのが、梶原しげるさんの知り合いのフリーのブックデザイナーで「質問上手」な方の話。「教えを請う」質問形式で作り上げることで、相手の無用なクレームを防ぐというやり方を実践されている。

依頼してくる編集者からは、大ざっぱでかつプレッシャーがかかるような注文が来たりする。
例えばこんな感じ。

「思わず客が手を伸ばす親しみの湧く感じ。とにかく他の本に埋没しないのがいい。だからといって、あまり奇抜なのもねえ……。その辺りよろしく。売れるかどうか表紙次第だから」(p100)

これに対して、サンプルを描き上げて「こんなのでどうです?」と見せると大抵ボロクソに言ってきたりする。

そこで、質問して具体化していく。パソコンだけでなく、様々な素材と大きさの紙、筆記用具等々を持参して、こういう感じで質問。

「本はどの大きさですかね? こちらですか? 色の感じは、このようなピンク系もありますし、暖色だとこんな感じになりますが? 書体も何種類か選んでみましたが、ご覧になりますか? 全体のパターンもたたき台としてお持ちしています。どういう方向がいいのか、ご教示いただきながら最良のものを作っていきたいと思いますが、いかがでしょうか?」(p100-101)

「ご指摘いただけますか?」
「一緒に考えていただけますか?」
「これなんかどうでしょうか?」
という姿勢で問いかける。

「出入り業者」が「プレゼン」をしに来ているのではなく「相談」「教示」「アドバイス」を頂戴したいという姿勢で見せることでスムーズにいくという話。

こういう姿勢を続けていくことで、次第に編集者のコンサルタント的役割を果たし、影響力が大きくなるということ。

なるほどなーと思った。自分の場合、イラッとして文句言ってしまいそうやからこの粘り強さと質問の仕方は見習いたいと思った。


■カリスマキャバクラ嬢に学ぶコミュニケーション
他にも印象に残ったのが山上紗和さんというカリスマキャバクラ嬢の方の話。著者も「ビジネスパーソンの見習いどころ」(p118)と言っていたけど、確かに参考になるところが多い。

例えば以下のあたり。

周囲への気遣い
「お店全体に支えられてのナンバーワンですから。今いるところは大箱で(店が大きくて)在籍百人以上。こういう業界だからいろんな人を観てるんです。表ではいい顔してても、バックヤードにいるヘアメイクさんに当たり散らす人。ボーイさんが注文の品をちょっとでも遅れて持って来ると『なにやってんのよ!』ってお顔しちゃう人。こういう人は大抵伸びませんね。みんなに協力してもらえませんから」(p117-118)

敵対する人をどうするか
「私の場合は私を敵視するような人を、まず私の席に呼んで場内指名をとらせてあげるようにするんです。私と意地張り合ってるより仲間になっておいた方が得だなって思わせる。その方が店全体の雰囲気も良くなるし、私も働きやすいし」嫉妬するやっかいな相手を、憎んだりいじめ返したりするのは簡単だが、あえてメリットを与えて仲間に取り込む。」(p118)

話を聞く
「お客さん達は、話を聞くよりも、自分の話を聞いてもらう方がずっとお好き。話すキャバ嬢より聞くキャバ嬢の方が出世する」(p121)


こんな感じで、「引っかかる日本語」の話とは別に、話す、聴くというコミュニケーションの話があって、そちらの話は結構参考になるポイントの多い一冊やった。

2013年2月26日火曜日

「「人」や「チーム」を上手に動かすNLPコミュニケーション術」でコミュニケーションの本質を学ぶ

「人」や「チーム」を上手に動かす NLPコミュニケーション術

「コミュニケーション術」とタイトルに入っていて、確かにテクニック的なことも書かれているけど、それよりも人間のコミュニケーションにおける本質的な理解が目指されている内容。

著者は、「技術の根底にあるもの」(p246)や「コミュニケーションにおいて本当に大切なこと」(p246)を伝えるため、「人に影響を与えるコミュニケーションの本質を理解できる本」(p3)としてこの本を書いたということ。

また、次のようにも述べている。

「私が皆さまに述べたいのは、人間はもっともっと幸せになれるということなのです。しかし、そのためには大昔に偶然の体験によってできてしまった、自分を制限するプログラムに気づき、それを書き換える必要があるのです。」(p230)

「「人生=〇〇〇だ」や「人間=〇〇〇」のような究極の一般化を、あなたにとって好ましいものに変えて頂きたい」(p231)


■コミュニケーションの分類
著者は、コミュニケーションには2通りのものがあるとしている。

  • 情報を伝達するコミュニケーション
  • 「人」や「チーム」を動かすコミュニケーション

そして、この2番めの方に課題を抱えている人が多いようだとしている。

また、コミュニケーションには2つのレベルがあるとしている。

  • 頭のレベルのコミュニケーション
  • 身体のレベルのコミュニケーション

このうち、特に身体に焦点があてられている。頭で理解しただけでは人は動かず、人が動くには身体から湧き出るモチベーションが必要であるということ、モチベーションは身体で考えるものではなく、胸やお腹で感じるものだとしている。

その上で、本書では「コミュニケーションを通して身体に影響を与える方法を提供したい」(p4)としている。

人間とはどういう生き物なのか、そうした解説から始めており、本質・土台から理解した上でコミュニケーションについての考え方を学んでいく構成になっている。


■わかっちゃいるけど、やめられない理由
上記の頭と身体に対応するけど、「考える自分」と「感じる自分」があるとしている。別の言葉で言うと、「思考」と「感覚」。

このうち、どちらが強いかというと、多くの場合「感覚」「感じる自分」の方。
「人間はまず身体で感じて、後から頭で意味づけする」(p38)

整理すると以下の2つ。

  • 意識=思考(頭)=言葉
  • 無意識=身体=感覚

人間は感覚に支配されているため、感覚をいかにコントロールするかが重要という話。

だから、人とコミュニケーションする上では言葉や意識より、感覚や無意識の方にアクセスすることが重要だとしている。

「腹落ちする」という日本語があるけど、まさに、頭で理解するのではなく「腹落ちする」ことが目指されている。こういう視点はなかなか面白い。


■変化とは感覚が変わること
また、著者は、「変化とは感覚が変わること」(p64)であり、「変化は無意識のレベルで起こるもの」(p66)だとしている。

この点に関して次のように述べている。

「変化とは感覚の変化なのです。
 そして、感覚は無意識の特徴だと述べました。
 つまり、変化はいつも無意識のレベルからしか起こらないのです。
 頭(意識) で考えても変化は起こらないのです。もし頭で考えるだけで変化が起こるのであれば、人は誰でも瞬時に変われるはずです。
 言葉を使って指示命令をしたり、プレゼンテーションなどで説明したりするのは簡単です。しかし、肝心の気持ち (感覚) を変化させることができなければ、受け手に変化はおとずれないのです。」(p66)


■相手に変化を与えるには
この上で相手に変化を与えるにはどうするか。いきなり変化させようとしないこと、まずはラポール、相手との信頼関係を築くことが重要だとしている。

まずは心を開かせることが重要。安全・安心を確保できると自然に心を開く。このため、無意識が求めているもの、すなわち、安全・安心を与えることが心を開かせる上では鍵になる。

では、どうやったら安全・安心を与えられるか。人が安心を感じるのは、コントロールできるかどうかが鍵。さらに、コントロールできるかどうかの判断には、よく知っているかどうかがポイント。

心理的距離、近い存在と感じるか遠い存在と感じるかどうかが大切な基準となってくる。心理的距離を縮めるには、ペーシング、相手とペースを合わせていくことが重要。

この時に相手の感覚にペースを合わせる。相手をよく観察し、相手の感覚を推測して合わせられるものを見つけたら合わせていく。

ペーシングができた後で始めてリーディング、相手を誘導する。具体的には、質問が有効。指示するのではなく
質問をすることで相手に決定権を与え、安全・安心を感じてもらえる。


こうやって順をおって説明されるとなるほどなーと思う。仕事でのコミュニケーションだけでなく、家族、特に子供とのコミュニケーションや、友人とのコミュニケーション等、いろんなコミュニケーションの場面で役に立つ考え方やなーと思った。

手元に置いて、コミュニケーションについて振り返る時に時々見返したい一冊やと思った。

2013年2月25日月曜日

作詞とかに興味ある人には良いかも?「3Dコピーライティング」



3Dコピーライティング

大学在学中に作詞家デビューをされ、今は作詞家&コピーライターとして仕事をされている方のコピーライティングについての本。

3Dというのは、意味、音味(音感)、形味(文字の形:字面)の3つの角度からコピーをチェックするという見方。

内容をみると、形味の話は少なくて、残り2つの中でも音味中心という感じ。語感やリズムを結構重要視している。

■全体の構成
構成は大きく以下の3つ。
  • コピーライティング
  • ネーミング
  • 作詞
それぞれについて技法を6つずつ紹介していて、具体例もついている。内容としては軽めで、一応章立てはしてあるもののあんまりまとまりがある感じではない。1つ1つはサッと読めるので雑誌みたいにパラパラ読むのが良いかも。

最後の作詞のパートは、詩と作詞のエキスをビジネスに活かせば百人力みたいなことを著者が書いていたけど、実際に紹介されているのは石川啄木や中原中也の詩、果ては万葉集の額田王の歌とかなので、ちょっと活用シーンはイメージしづらかった…

著者が作詞の仕事をしていたので書きたかったんやとは思うけど…あと、コラムのQ&Aも作詞に関する話が多くてあんまり本文の説明とのつながりも分かりづらかった(作詞の印税の分配の話とかもあって、それはそれで興味深いけどコピーライティングって感じではない…)。

説明の仕方も感性的な感じなので具体的な手法について学ぶのは難しかった。そのあたりは左脳派の自分にはちょっとレベルが高かった…

けど、左脳で論理を詰めていくだけでなくて、こういう感覚みたいなのもコピーづくりには大事なんやろうなーと思った。


■実例付きでポイントを紹介
整理の仕方や着眼点としては参考になるところもいくつかあった。例えば、対象と何かを同定するという技法。

具体的には、断定のパターンでサッポロビールの「ビールづくりは、農業だ」という例や並列というパターンでカゴメの以下のようなコピーが紹介されていて、なるほどそういうパターンねということが分かりやすかった。

「トマトと母乳。
 トマトと皮膚。
 トマトと寿命。
 トマトと血管。」

こんな感じで、1ページ1パターンの解説+実例という感じなので、解説が多少ふわっとしていても実例でなんとなくイメージが分かるようにはなっている。ただ、実例の元ネタが分からないものもあってそのへんは難しかったけど。


■ネーミングの十戒
いくつか紹介されていたチェックポイントの中では、ネーミングのチェックポイントが参考になりそうと思った。

あんまり商品名を考えたりつけたりする機会は今のところないんやけど、もし機会があったら参考にしようと思った。ポイントとしては以下のあたり。
  • メリットは凝縮されているか
  • カンタンか
  • 個性派あるか
  • 耳に気持ちいいか
  • アイ・キャッチーか
  • メモリーしやすいか(覚えやすいか)
  • 口あたりがいいか
  • あーとしているか
  • フィットしているか
  • 商標登録OK?
(p71-72)

全体的にはBtoBよりBtoC向け、マス向けという感じがする。商品や事業の全体のキャッチフレーズ、スローガン等、大きなものを考える時にアイデアの引き出し方として1つの参考にはなる一冊やと思った。

2013年2月23日土曜日

「ブータン、これでいいのだ」でいいのか?というところもありつつ、いろいろ学べる一冊


ブータン、これでいいのだ

ブータンで1年間くらい、政府のアドバイザーとして働かれた方が、ブータンでの経験から感じたことをつづった本。元々日経ビジネスオンラインの連載の方も読んでいて面白かったので本も読んでみた。

ブータンと日本の文化の違いから感じたこととかが、自分がインドに行った時やインドとのやりとりで感じたこととも通じることがあって共感しながら読めた。文体も明るい感じの口語調で話を聞いている感じで読みやすい。


著者紹介をよく見たら1985年生まれということで自分より年下やったのにちょっとびっくりしたけど、年代的には近いのでそのへんもあって違和感なく読めたのかも。


■ブータンは幸せの国?
ブータンというと、GDPではなくGNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)の向上を目指すというビジョンを掲げていて、ヒマラヤの山で素朴につつましく暮らしている…みたいなイメージがある。

本書では確かにそのイメージにも合うような話も紹介される。例えば…
  • コミュニティのつながりが強い
  • 家族との生活を大切にしていて17時(冬は16時)くらいには退社する
  • 政府で働く官僚も手帳もカレンダーを持たず頭で記憶できる範囲(1-2日)でしか予定を立てない
  • 農村部では夜這いが残っている、結婚していても恋愛することに力を入れたりする
  • 失敗しても許される文化がある

あと、面白かったのが、今の国王の話。今の国王は国民との距離感が近いとのこと。例えば、「今、国王はだれだれと付き合ってるらしいよ」とか「先週、バスケットボールコートで見かけたよ」「えー、マジかよ」「いや、国王よく来てるよ」とか国民の間でされとったらしい(笑)

ブータンの面積は九州と同じくらい、人口は68万人くらいで島根県とか練馬区・大田区と同じくらいらしい。このくらいの国ならではやなーと思う。

ただ、著者も言ってたけど、日本とブータンは国のサイズも成熟度も違う。その中で単純に比較しても、例えば大企業とベンチャーを比べるようなもの。もちろん参考にできる部分とかはたくさんあるけど、その背景を踏まえた上で考える必要があるということ。

あと、上記のようなこういう素朴や幸せのイメージだけではなく、以下のようなシリアスなテーマも扱われている。
  • 中国とインドという2つの大国に挟まれていかに舵取りをしていっているか
  • グローバル化による影響
  • 都市部では若年層の失業率が高い
  • 財政においてインド等の国からの援助の占める割合が小さくない
  • それにも関わらず国内で非熟練労働はインド人が担っていたりする歪んだ構造がある
このあたりも含め、多層的に見ていける内容になってる。


■「仕方がない」と割り切る力
1つ興味深かったのが「割り切り力」の話。

「ブータンの人々は「人間の力では(または自分の力では)がんばってみてもどうにもできない」と思っている範囲が日本人よりずっと大きいのではないか」(p93)ということ。

これは良し悪しで、良い面としては失敗をしてもしょうがないということで過度なプレッシャーが生まれずに気楽に取り組める。

逆に悪い面としては仕事が期限通りに進まなかったとしても笑って済ませてしまったり、失敗してもあまり学ばない。これが医療の場になると結構重大で、助からなそうと見えた人を諦めてしまいがちといった話もあった。

このあたりはホント良し悪しやと思う。悪い面を無理に直すと良い面にもたぶん影響が出る。このあたりをどう考えて調整していくか。

この点に関連して、著者とブータン人のマネージャーの方との話が印象に残った。

「「ブータン人ガイドへのお客様からのクレームって、やっぱりまだまだある。ちゃんとエスコートできてないとか、気が利かないとかの指摘が多いんだ。お客様の足が泥沼にはまってしまった時『大丈夫ですか!』と心配するのではなくて、ケラケラ笑っていた、とかね(苦笑)。産業として、やっぱりトレーニングを強化していかないとね」

 それに対して、私はこう答えました。

「うん。でも、ブータン人らしさがよかったっていうお客様もいるよね。言葉遣いや態度は粗野なんだけど、古くからの友人のように心温かく接してくれているのが分かる、とか。ガイドが自分の実家に連れて行って大家族全員を紹介してくれてうれしかった、とか。どこの国にもあるエレガントなエスコートだけが目指すべきものではないかもしれないよね」

「そう、そうなんだよね」

「バランス、かな」

「うん、バランス。難しいね」

こんな話題で今日も夜が更けていきます。」
(p101-103)

自分の場合、インドの開発チームとやりとりする時にちょっと似たようなことを感じる。

日本向けにいろいろ細かな対応をやってもらおうとすると、本体のスピードとか効率性を犠牲にしてしまう部分が出てくる。でもそうしないと日本市場では受け入れてもらえづらかったりもする。

このあたりは著者も例で紹介していたように結局バランスなんかなー。


■幸せになろうと思ったらね、自分の幸せを願ってはいけない
あと、幸せについて、ブータン人の友人や上司の人が言っていた話が良い言葉やった。

「あるところにいて文句ばかり言う人は、別の場所に行ってもきっと文句ばかり言う。今いる場所で幸せを感じられる人は、別の場所に行ってもきっと幸せを感じることができる。そういうもんさ」―ブータン人の友人
(p202)

「幸せになろうと思ったらね、自分の幸せを願ってはいけないんだ。自分の幸せを探し出したら、どんどん、幸せから遠ざかってしまうよ」

「これはとても大切なことなんだ。幸せを願うのであったら、自分の幸せではなく、周囲の人の幸せを願わなくてはいけない。家族だとか、友人だとか、自分の身近な大切な人たち。そして周りの人たちが幸せでいられるように、できるかぎりのことをするんだ。知ってるかい? 人のためになにか役に立つことをして、相手が幸せになるのを見ると、自分にもとても大きな満足感が返ってくるんだよ。それは、自分のためになにかしたときより、ずっと大きな満足感なんだ。幸せになりたかったら、まず、周りの人の幸せを願って、そのためになにかすることが大切なんだ。自分の幸せを探し出したら、幸せは、みつからないんだよ。ブータン人は、それをみんなよくわかっている」
―GNHコミッションの長官
(p213)

このあたりの言葉は心に留めておいて、定期的に見返したい


■できることにフォーカスする
もう1つ良い言葉やな~と思ったのが次の言葉。

「そもそも、僕たちができることなんて、限られているんだ。だから、自分にできることを、等身大でがんばればいい。できることを、すればいい。僕たちの国王はいつもこう言っているんだ。『小さくても、できることをすればいい。最初は小さな動きでも、いいものは、波紋のようにどんどん広がっていくんだよ』 ってね。
 だから、自分がどうにかできることにフォーカスするんだ。それ以外のことについて、課題をみつけて嘆いたりしていても、仕方がないんだよ。自分の身の丈を超えて、生真面目に思い悩みすぎてはだめだ」

「肩の力を抜いて、リラックスして、こう思うことも大切なんだ。『これでいいのだ』ってね」
(p216)

前に松井秀喜選手の本を読んだ時に、コントロールできることとできないことを分けてコントロールできることに集中するっていう話があったのを思い出した。

小さくてもできることをっていうのは勇気をもらえる言葉やなーと思う。


■英語とゾンカ語とタミル語
ブータンではゾンカ語という言葉が使われているらしいけど、子供の頃から英語にも慣れ親しんでいるので両方話せる人が多いらしい。そうすると、だんだん言葉も混ざってくる。

例えば、「少し」とか「ちょっと」っていうのは「アツィツィ」と言う。また、丁寧語の場合は語尾に「ラ」をつける。そうすると、「ちょっと難しいですね」というのは「あツィツィ ディフィカルト ラ」というらしい(笑)。

言葉をマイルドにしたりニュアンスを伝えやすくなるということやけど、自分が一緒に働いている人達が話す南インドのタミル語も似たような感じのことがある。例えば、「○○です」っていうのは「○○ イルック」って言うけど、「涼しいです」っていう時は、「クールラー イルック」と英語の「cool」とちゃんぽんになっている。

このへんの混ざり方っていうのは面白いなー。ってか、よくよく考えたら日本語でも同じようなことあるよなと思った。このあたりの言語の融合っていうのは面白い。


■「もったいない」も大事やけど「食べたい!」と思った時に食べると幸せ
あと、羊羹を食べる話もかなりよく分かる!っていう共感があった。日本から羊羹等の日本食を持ってきていたけど大事にとっておいて、結局賞味期限が来たりしていたのが、途中からブータンの今を楽しむ文化に染まって「食べたい!」と心から思う時に食べるようになったとのこと。

この前半部分の話は自分もインドに行った時に同じようなことをやってて、結局帰る時になってもまだ残ってたりとかしてた…

著者はそういうふうにするようになってから、羊羹でも海苔でも梅干しでも、食べたいと思った時に食べる時に食べることで心から美味しく感じられるようになったとのこと。後から食べたくなっても、あの時食べたくて食べて美味しく感じられたのだからよしとしようと割り切れるようになったとのこと。

なるほどなと。自分も今度からはブータン式に改めようかなと思った(笑)


上記の他、特に興味深かったのがリーダーシップの話。国王を始め、政府系機関の中にもいろんな層でリーダーシップをしっかりとれる人材が育っているらしい。

本書ではこのあたりは軽く触れるにとどまっているけど、どうやって人材が育っているのかもう少し詳しく知りたいなー。

これでいいのだ」でいいのか?というところもありつつ、いろいろ学べる一冊やった。

なお、本書の内容についてのある程度話は、以下の連載からも読めるのでオススメ。


2013年2月21日木曜日

文章の美しさに感動を覚える「にっぽん虫の眼紀行―中国人青年が見た「日本の心」 」

にっぽん虫の眼紀行―中国人青年が見た「日本の心」 

著者は中国から留学生として来日した後、社会科学系の研究所を経て商社に勤務して日本で生活されている方。

商社勤務のかたわら「歎異抄」の中国語訳を出版されたというからスゴイ。その後も中国語と日本語による文筆活動を継続されたとのこと。

著者の経験1つ1つに関する情景や心の動きが丁寧に描かれている。トピックも著者の子ども時代の話から、日本での経験まで様々。

例えば…

  • 桜の開花予報について
  • 花見の場での桜酒をつくる夢を持っている人との会話
  • 終電の中で見た酔っ払いの様子
  • 地下に八百屋がある理由
  • 明石海峡の橋の工事でカモメと交流する若者
  • 莫言さんへのインタビュー(最近ノーベル文学賞を受賞された方)
  • 神戸の震災
  • 等々

時代としては少し前やけど、流行り廃りとは関係ないテーマが多いので今読んでも新鮮な感じがした。


■まるで短編小説を読む、短編映画を見ているような気になる文章
読んでいる間は、完全に日本語ネイティブではない方が書かれた文章であることを忘れとった程文章が整っている。これは驚異的。著者の方はとても感性が豊か。文章も抒情的で、1つ1つの話が物語のようで美しい。

途中からは短編小説集を読んでるような感じがするなーと感じてたら、読み終わってカバー裏を見返したら解説に「ひとつひとつがあたかも短編小説のような繊細な味わいと余韻を残す、異色のエッセイ集」と書いてあった。

また、文章はとても映像的で、読み進めると情景が浮かび上がってくる。小説なんじゃないかと思えるほどドラマチックな話もあって、短編映画を見ているような感じでもあった。


■国という概念は個人の経験の積み重ね
内容は、「ひとりの中国人が描いた日本」(p232)というもの。時代としては1980-1990年代くらいの話が中心。「虫の眼」とタイトルにつけているように、全体的な日本、日本人論という大きな話よりは、著者自身の個別具体的な経験からの話がほとんど。

こうした書き方をした理由は、「あとがき」での著者の次のような言葉にあらわれているように感じた。

「私にとって、国という概念は個人の経験の積み重ねであり、ほかでもなく人の直観そのものである。一個人が語るその国の姿は、多くの場合においてもっとも説得力を持っていると私は思うのである」(p235)

自分の場合は、仕事で何度か行ったインドのことを思いだしたけど、行く前はインドっていうと、カレー、IT、数学みたいな漠然としたイメージしかなかった。

実際に行った後で思い出すのは、全体的なイメージというよりは、個々の出会いや会話、体験。カレーも思い出すけど、会社の食堂での食事や同僚に招かれて家でご馳走になったものだったりする。そしてそうしたものの方が、グッと自分に迫ってくる感じがする。

「国という概念は個人の経験の積み重ねであり、ほかでもなく人の直観そのもの」という言葉は覚えておきたいと思った。


■中国人観光客の誘致 留学生の情報発信を生かせ
現在はどうされているのかなと思って検索してみたら、神戸国際大学で教授をされている様子。

2013年1月26日の朝日新聞の朝刊で
「中国人観光客の誘致 留学生の情報発信を生かせ」
という記事が載せられていて、この内容も興味深いのでオススメ。
http://amaodq.exblog.jp/19692201/

領土問題とかがあると、国と国との観念的な関係を考えてしまいがちやけど、この本でも書かれているように、個人の体験の積み重ねをベースにして考えていくとまた違ったものが見えてくるなーと感じた一冊やった。

2013年2月20日水曜日

「震える学校」はぜひいろんな大人(特に子育て中の人)に手をとってほしい一冊

震える学校 不信地獄の「いじめ社会」を打ち破るために 

「私たちは「健康な学校」を取り戻さなければならない」という一文から始まる本。いじめの事例やモンスターペアレントの話が凄まじく、ところどころ絶句しながら読んだ…

いじめについて、現場の経験から再構成した事例をもとに、どのような問題が起きているのか、問題の根本原因は何か、それをどう解決していけば良いのかといったテーマを扱っている。

著者の方は、東京都の児童相談所で児童心理司として働かれている方。「いじめをなくす」取り組みの中で、「いじめ社会」は子供の間の中だけでなくもっと大きな構造の中で動いていて、この認識を共有できないと大人同士が協力しあえず、問題の解決には至らないのではという問題意識から書かれている。

なお、事例として紹介されている内容はプライバシーの観点から、いくつかの事例をもとに再構成されているとのこと。ただ、その上でもかなりリアリティがある。

本自体は文章も分かりやすく文字も読みやすいし、全部で126pと厚くないのでぜひいろんな人に手に取ってほしいと思った。

以下、印象に残った話。


■いじめの防波堤は大人同士の信頼関係
根本は大人同士ですら信頼関係が築けていないことがあるということが示されていて、冒頭の方に以下のように描かれている。

「「子どもを守る」立場にある私たち大人が、話し合い、協力し合う姿を見せることが、いじめの防波堤になるに違いない」(p5)

最初にこれを読んだ時はあまりピンとこなかったけど、読み終えた後だとその意味がよく分かる。

問題の背景の1つには、まず、子どもが大人を信頼できていないことがある。子ども同士で問題が起きた時に大人に手助けを求められない。手助けを求めたとしても見すごされたり、逆に問題を悪化させるような介入のされ方をされてしまったりする。

さらにそれ以前に大人同士に信頼関係が築けていない。誰かが気付いても、問題について正直に話し合える信頼関係が築けていないので問題を直視して対策を打てない。子どももそうした事情を分かっているのでますます問題が悪化する。


■教師もいじめに巻き込まれる
象徴的なのが一番最初に紹介されている例。これは教師自身が生徒からいじめにあっている例。そのいじめの内容がひどい。授業が崩壊するだけでなく、上着を汚されたり給食をかけられたり、脅迫や悪口のメールが一日百通以上も来たりする。

内容は「死ね」「ウザイ」「キモイ」という誹謗中傷だけでなく、「お前の奥さん結構かわいいじゃん」「レイプしてやろうか」という脅迫まがいのものも。しかも奥さんは妊娠したばかり。

この方自身は「こんなこと、恥ずかしくて誰にも相談出来ませんでした」と述べているように、同僚にも校長先生にも相談できない状態に陥っていた。そして、次第に悪口メールの数が増えるにつれ、同僚からも来ているのではないかと疑心暗鬼に陥り完全に悪循環。

同僚の先生方も、いじめられている先生が上着を洗ったりしている様子等、個別の事象には気付きながらも相談しあうまでは踏み込めていなかった。

この学校では、最終的にはいじめがあった事実をオープンにして、学校と保護者の話し合いを定期的に持ち続けることで次第に問題が収束していったとのこと。

先生と保護者、先生同士が一緒になってしっかりと問題に取り組んでいくという姿勢を子どもたちに見せることが重要ということ。


■大人が騒ぐメリット
別の学校の事例では、子どもたちにヒアリングをした時の話が紹介されていた。その学校では、ある先生が「暴力教師」「わいせつ教師」の疑いをかけられていた。

当の先生は最初は否定していたものの、校長や教育委員会から何度も詰問されるうちに、段々自分のことがよく分からなくなり、さらに認めてしまった方が楽になると考え「やったかもしれない」と言ったという。

事情を聴いていくと、大本は、そういうことをやってそうというネット上の書き込みからスタートしていたとのこと。生徒だけでなく親もそれにのっかってくる。

ある生徒の言葉として次のような言葉が紹介されている。

「学校がこうなっちゃうと、テストの点悪くても、親も『今の学校じゃ仕方ないわよね』って怒らないし。『学校行きたくない』って言っても『仕方ないわね』とか言って休ませてくれたり」

「それに、親が思いっきり学校とか先生の悪口言ってるの見るの、結構楽しいっていうか」

「だってさ、私たちが先生の悪口言うと普段は親って怒るのに、今は先生の悪口言うと、『やっぱりね』ってむしろ喜んでくれるしね」
(p57)

保護者が大騒ぎすることで子どもたちもメリットを感じ、さらにエスカレートするという構造になっている。

結局、この先生は今は現場を離れているということ。著者は、もし同僚の誰かが1人でも「そんなことをする人ではありません」と言ってくれれば、ここまで深刻な事態にならなかったかもしれないということを述べている。

同僚に限らず、保護者なり学校関係者なりの誰かが手助けしてくれればそこまで悪い方向には向かわなかったかもしれない。

ここでも、著者が繰り返し述べているように、大人同士の信頼関係が重要であるということが示されている。


■朝から苦情の電話が鳴り止まない学校
大人同士の信頼関係を考える上では、先生同士の関係も大事やけど保護者との関係も大事になってくる。しかし、それが一筋縄ではいかないケースもある。

ある事例では、保護者からの大人気ない要求が紹介されていた。そういう話があるっていうのは別のところでも見聞きしてたけど、この事例を読むと絶句してしまった。

ちょっと長いけど、そのままの方が伝わると思うので引用。

「きっかけは一人の保護者からの要求だった。うちの子がクラスになかなかなじめない。だから席替えをして欲しい。担任は、「それくらいなら」と思い、席替えをした。すると今度は「クラス替えをして欲しい」と言う。いくらなんでも学期の途中にそれは出来ない、と担任は断った。すると「担任を変えろ」と言い出し、副校長が出来ないと返答すると、副校長を変えろ、校長を変えろと言い出して、教育委員会にも苦情がいった。「とにかくそれから難癖としか思えないことばかりで。教え方が悪いからテストの点が悪いんだ、とか、専科の先生に有名な専門家を呼べとか、うちの子はきれい好きだから職員用のトイレを使わせろ、とか」

 校長はふう、とため息をついた。

「ひどい時は一日に三十回以上電話がかかってきます。担任と副校長は自宅と携帯に夜中までかかってくるので、朝まで電話を切れなかったりして」

 夜中の電話は出なくていいと校長が指示すると、日中にそのことで苦情が来る―。

 私はそこで口を挟んだ。

「そういう場合、学校のルールを保護者会で確認し、誰か一人を特別扱いは出来ないということを保護者間での約束事にしてみてはいかがでしょう」

 実際に保護者対応で困っているいくつかの学校で実践してもらい、成果も出ている。ところが、である。

「苦情を言い出した保護者が、今のPTA会長なんです」

 例年、PTA役員の選出には時間がかかった。会長となれば、ますますなり手はいない。だが、今年は違った。問題の保護者が立候補したのだ。

「教員たちは絶句しました。その保護者は子ども同士の喧嘩で子どもが怪我をすると相手の家に怒鳴り込みに行って、治療費を請求したりするので、保護者間トラブルも非常に多い方だったのです。だから保護者たちも賛成、というわけではなかったんですが」

だが、誰も止められなかった。

「もちろん、学校としては役割をきちんと果たしてくだされば、何も言うことはないんです。その保護者は実際、熱心でした」

 しかし、PTAの役員会で堂々と苦情を言い、学校の問題をあげつらうようになる。

「そういう空気は伝染するのでしょうか。PTAの会合だけではなく、保護者会も教師や学校への苦情を言う場、のようになってしまって」

 教え方が悪い、担任を変えろと他の保護者も言い出すようになった。成績評価が間違っている、書き換えろ。テストをやり直せ。教材を変えろ。うちの子は身体が弱いから教室を四階から一階に変えろ。保護者からの苦情が増大したのだと言う。

「職員室の電話は鳴りっばなしです。授業が始まるから、と言って電話を切ればそれが苦情になる。電話対応していて授業開始が遅れれば、それが苦情になる。今、精神的に問題を抱え、病欠している教員が二名います。副校長も授業に入ってもらっていますが、それでも自習のクラスが出る。それも苦情」

 完全な悪循環だ。

「個人面談も三者面談も苦情の場のようになってしまっているので、お恥ずかしい話なのですが、個人面談の日に担任が体調を崩して休んだりすることもあって」

 当然、それも苦情になるだろう。

「うちの子がいじめに遭っている、という訴えもいくつか出てきています。学校としては、放置するわけではないのですが、何からどう手をつけてよいのかわからないのです。とにかく、毎日の苦情を処理するので精一杯の状態なんです」

 処理するだけでは苦情は減らない。対応する人は疲労し、ミスが増える。するとまた苦情が来るという悪循環で、この学校は今や苦情処理がメインの仕事になっている」
(p69-71)

大人同士の信頼関係を考える上では、大人が「大人」になっとらんといかんと思う。こういう保護者にはなりたくないな…

この例では、電話で苦情を受け付けるのを止めて、定期的に保護者と話し合う場を設け、そちらにコミュニケーションを集約することで次第に収束していったとのこと。


■じっくり我慢する―ネット上の書き込みに耐えていく時間
事例で紹介されている対策はいずれもオーソドックスで、上記のように定期的に保護者会を開くとか、アンケートをとるとか。

手法の目新しさが重要なのではなくて、いかに効果的に信頼関係を取り戻していけるかが重要なんやなと感じた。

対策の話では、1つ印象に残ったのが、ある学校で行った事例。ネット上にいじめに関する書き込みページを開設。これはなかなか勇気がいることやと思う。

先生方からは、書き込んでくれるものだろうかとかといった声が出てきたが、著者の方がまずはやってみて、それで効果がなかったら次に何をすべきか一緒に考えましょうと呼びかけて始める。

最初に、誰が書き込んだか絶対に特定はしない、返信もしない、さらに詳しい話が聞きたいともい絶対に言わないという「約束」を掲げて開始したものの、開設当初は

「うぜえことしてんじゃねえ」
「馬鹿じゃないの?」
「マジ、キモッ」
「ホント、この学校、馬鹿教師の集まり」
「マジでいじめがなくなると思ってんのかね?」
「死ね、教師全員死ね、消えろ」

といった荒れた書き込みばかり。

毎日全員で目を通すも先生方も落胆し疲れていく。こんなことをしても無駄じゃないかという声も出てくる。しかし、著者は次のように訴えかける。

「生徒たちは、まだ安心していません。このページが安全かどうか、約束は守られるのか、こうやって試しているんです。だって普通だったら、こんな書き込みしたら、先生に怒られるでしょう?でも、私たちは約束しています。返信しない。問い詰めない。その約束を守っているのか、試されているんです」(p41)

じっと我慢して続け、どんなにひどい書き込みがされても、先生方が

「昨日も書き込みがありました。情報をありがとう」
「引き続き、情報を募っています」

と生徒たちに発信し続ける。そのうちに、もしかして…といった書き込みやメールが寄せられるようになる。生徒や保護者の中から協力的なメッセージが届くようになり、そこからさらに対策を進めていったとのこと。

書き込みできる場所を設けるっていうのはかなり勇気のいることで、しかも罵詈雑言に耐えていくっていうのは相当忍耐がいることやと思う。でもそういうプロセスを経ることで信頼関係を回復させることができたということ。


■何をしてはならないか
さまざまな学校で実際の問題解決に関与して来ている方なので話にリアリティと説得力がある。特に問題解決に当たっては、具体的に何をすればだけではなく、何をしてはならないかということも書かれている。対策というと前者に目が向きがちやけど、実は後者も子どもに関わる上ではとても重要ということが分かった。

それは例えば子どもから話を聞くときには、詰問しない、説教しないといったこと。
「話の中に明らかに「悪いこと」が含まれていても、途中で遮れば、大事な話が聞けなくなる」(p62)

真偽や善悪の判断は一旦保留して、まずは聞くことで信頼関係を回復させる。そのためには詰問や説教をしてはいけないということ。
このあたりは会社のコミュニケーションでも言われたりすることやけど、子ども相手やとなおさら大事なんやろうなーと思った。


■信頼される学校のためのルール
上記のようなポイントや事例の話を踏まえつつ、最後の章では、信頼される学校のためのルールとして以下の点が示されている。

①複数の教員の目で見守る
②保護者全員に知らせる
③電話ではなく、定期的な保護者会で話し合う
④子どもたちには保護者からも伝えてもらう
⑤被害者への質問はしない
⑥アンケートは、活用のルールを子どもに伝えておく
⑦情報は集めても、「事実の調査」にはこだわらない
⑧さまざまな大人が見守るオープンな学校に
⑨頻繁な保護者会で、連続的なコミュニケーションを生み出す
⑩子ども同士の話し合い
⑪学校内部で解決出来ない時(外部に相談)

このあたりは具体的に対策を打っていく際に参考になる指針やと思う。

読み終えてみて、親である人、特に就学前、就学中の子どもを持つ人に読んで欲しい一冊やと思った。自分もこれから親になるに当たって読んでおいて良かったと感じる。

2013年2月19日火曜日

シルバーシートで寝たふりをする若者は社会性がある?(子どもの社会力)



子どもの社会力

子どもの成長についての問題意識から、その問題の根本原因や解決に関わるキーワードが「社会力」だとして著者の考えを述べた本。

読者としては、主に子育て中で悩んでいる若い親や、青少年の育成に携わって苦労している人、児童生徒の指導が大変な学校の先生たちということ。

また、若い人にも、本書を読みながら自分自身を相対化して考えてほしいというメッセージが呼びかけられている。

以下、印象に残ったポイント。

■既存社会への適応と変革
「社会性」という言葉があったのに対し、わざわざ「社会力」という言葉を使ったのは以下のような問題意識から。

「わが国の若い人々に欠けているのは社会への適応力というより、自らの意思で社会を作っていく意欲とその社会を維持し発展させていくのに必要な資質や能力である」(pⅶ)

こうした資質や能力はそもそも先天的に備わっているのか、そうでないとしたらどのように形成されるのか、若い世代に置いてそれが十分に形成されていないとしたら何が原因かといったところを、脳科学や社会学的な知見から探っている。

社会性と社会力の違いについては、もう少し違う言い方で次のように述べている(p64)。
  • 社会性…現にある社会の側に重点を置いている、既存の社会への適応、社会の維持
  • 社会力…社会をつくる人間の側に力点を置いている、既存の社会の革新
「社会力」という言葉の良し悪しは別として、こういう概念は大事やと感じる。この本では子育てとか学校教育の話がメインやけど、会社でも同じようなところがポイントになる。

これも良し悪しはあるとして、現状の会社の状況に適応するのか、会社を変えていこうとするのか、その時に他社にどう働きかけ、どうコミュニケーションをとっていくのかというのは重要なので、概念としては仕事にも通じる気がする。


■50代男性が20代女性に「裸になりなさい」と言ったら…?
社会力に関連する話で、なるほどと思ったのが生活世界の意味づけ」という話。生活している世界やその中での状況がどのように意味づけられているか、社会生活を共にしている人と認識を共有できているか、さらに、その意味づけに応じた言動をとれるかどうかが鍵になっているということ。

これに関連していて紹介されていたのが「場」のついての例。50歳くらいの男性と20歳くらいの女性がある場所にいたとする。そして、男性が女性に向かって「裸になりなさい」と言ったとしたらどう判断するか。

これだけ聞くとエーッと思う。「場」がもし大学の研究室だったとして、男性教授が女子学生に言ったとしたらセクハラとして裁判沙汰になり得るような話。しかし、もし「場」が病院の診察室で男性が医者で女性が患者だったとしたらなら適切な言葉として受け止められる。

こうした形で場や状況、当人同士の関係性によって適切な相互行為というのは異なってくる。それを読みとって状況を理解しそれに応じたふるまいをしていくのが1つ大事な能力になるという話。


■シルバーシートで寝たふりをする若者は社会性がある?
あとがきの中で紹介されている話が面白かった。長年、行動療法による自閉症児の治療に関する研究をされてきた小林重雄さんという教授の方が最終講義で話されたという内容。

「電車に乗っていると、シルバーシートに座り大股開いて寝たふりをしている若者をよくみかける。そんな若者をみて大人は「最近の若いモンは社会性がない!」というが、そうじゃないんです。そういう若者は社会性があるから寝たふりができるんです。そうでしょ。彼はシルバーシートには高齢者や障害者しか座ってはならないことを知っている、だから高齢者や障害者がいたら席を譲らなくてはならないこともわかっている、だけどいま目の前に立っている年寄りに席を譲るのはイヤだ、となれば知らんふりするしか方法はない、ならば寝たふりをするのが一番、とまあこんなふうに考えたはずです。これだけの考えを自分の頭の中で巡らすことができるというのは相当に社会性がある証拠です。自閉症児は日の前に誰がこようと無頓着で大目を開いて座っています。
 子どもや若者の社会性とか社会力といったことについてあれこれ考えていた私には、この話が思いがけぬいいヒントになった。なるほど、社会性をそんなふうに考えればいいのか。なまじ道徳性とか社会規範と重ねて考えていたから、自分の頭の中でもやもやしていたものを"社会性"と呼ぶべきかどうか踏ん切りがつかなかったのだ、と。社会性とは、要するに、社会の中でうまくやつていく術に長けているということなのだ。とすれば、ブルセラショップヘ行くのも、援助交際するのも、うまい口実を考え親からカネをせびるのも、あれこれ言いくるめて自分の非を他人の非にするのも、あるいは、人との関わりを避け自分の殻にこもって生きるのも、すべて現代社会に適応する新しいかたちなのではないか。こう考えてみると、ようやく、もやもやが晴れてくる。そうだ、今の子どもや若者に欠けているのは社会性ではなくて、"社会力"といつたものではないか。社会に適応する力ではなくて、社会を作り変革していく力ではないか、と。とすれば、大人だって相当に社会力が欠けているではないか」(p202-204)

なるほど、そういう見方もあるのかと感じさせられた。子どもや若い人の行動を嘆いたりそれに怒ったりしてもしょうがない、というか、むしろそれは大人たちが作っている社会に適応した結果でもある。インサイド・アウトで考えたら大人から変わるべきところがあるように思う。これから子育てをしていく上で考えさせられるなー。

また、著者は次のようにも述べている。

「一書を書き終えて改めて強く思うのは、子どもや若い人たちをしっかり育てていかなければならないな、ということである。彼らに向かって、彼らの態度をなじり、彼らの行動を憤り叱咤するのではなく、彼らと同じ方向を向いて歩きながら、辛抱強く育てていくしかない」(p206)

これに対応する1つの方向性として、著者は、地域で子どもを育てるということを提唱している。これは昔は当たり前のように行われていたけど今は失われているということ。

このへんの話は今ではよく言われていると思うし、じゃあ地域でどう育てていくかという具体的な話は紙幅や時間の関係上か事例の紹介くらいにとどまっているけど、今改めて大事な視点やと思う。

子どもや若者の行動に問題があったとして、それを当人のせいにしたり親や学校だけのせいにするのではなくて、地域の大人が全体で子どもに関わっていくような場や関係性づくりが大事やなーと再認識させられた一冊やった。

しかし、こういうことを考えると、子どもは地方とかで親戚とか家族づきあいがある中で育てた方が良いような気がするなーとも思った…


2013年2月17日日曜日

「日本人になった祖先たち」について考えるとこれまでと違った世界観が見えてくる

日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造

人類の起源はアフリカやと言われているけど、そのアフリカから遠路はるばるどうやって日本まで人がたどりついてきたのか。日本人の起源はどこにあるのか。これを分子生物学の研究成果から解説している。

具体的には、最近飛躍的に向上しているDNAによる鑑定方法の解説を踏まえた上で、アフリカからどのように人類が拡散していったかを読み解いていったもの。

特に、母系由来のミトコンドリアDNAについて世界各地で採集された結果のデータベースを利用して解析したものがベース。

著者の書き方はあまり断定的なことは書かずに抑制的な感じで研究成果を淡々と紹介している。専門的な話は少し難しいところもあるけど、できるだけ事実ベースで話を進めようとしている。

ここまでは分かっていてこう考えられているけど、ここからは分かっていないといった感じで誠実な書き方やと思う。

以下、いくつか面白かった話について。

■アルコール分解遺伝子
まず面白かったのがアルコール分解遺伝子の話。自分はお酒にめっぽう弱いのでこの話が気になった。

アルコールは体内に入った後、一旦アセトアルデヒドという物質に分解され、その後に酢酸と水に分解される。このアセトアルデヒドは毒性が強いので、肝臓で分解されないままに血液中に流れ出すと頭痛、二日酔いや悪酔いを引き起こす。

このアセトアルデヒドの分解過程には2つの経路があり、ALDH1とALDH2と呼ばれている。このうち、お酒の強さに関するのがALDH2で、これが正常に働くかどうかでお酒を飲んでも平然としていられるか、すぐに真っ赤になる下戸になるかが変わってくる。

そして、遺伝子の観点から言うと、ALDH2の持ち方は以下の3パターンに分かれるという。

  • 正常なセットを持っている人
  • 正常なものを1つだけ持っている人
  • まったく持たない人

実は、ヨーロッパやアフリカの人はほとんどが正常型のセットを持っているらしい。正常でない変異型を持っているのは、中国南部を中心とした極東アジア地域に多いとのこと。

日本国内でみると、1のパターンが56%、2のパターンが38%、3のパターンが4%存在すると言われているけど、分布は地域的に偏っている。正常なセットを持っている人は、東北と南九州、四国の太平洋側に多いらしい。

この話は、日本人の成立に関するある説とも関連している。在来の縄文人が住む日本列島に、水田稲作と共に渡来系弥生人がやってきて、両者の混血によって現代に続く日本人が形成されたという説(二重構造論)。

この説では、北海道、東北、九州南部、沖縄には縄文人の系統が残っていると考えられているとのこと。渡来系の弥生人が変異型の遺伝子を持っていたと考えると、上記の遺伝子の分布と重なる。水田稲作と変異型遺伝子の故郷が重なることになるので興味深いという話がされている。

もちろん、まだ断定的なことは言えないので著者も今後の研究の成果を待ちたいと述べているけど、確かになかなか面白いなーと思った。


■日本人は実は多様な遺伝的集団からなっている
人類の遺伝的な系統を追っていくために、DNAの解析結果を元に、グループに分類して系統樹が作成されているらしい。この話を元に開設が進んでいく。

日本の話は中盤以降からで、早く読みたい気もしていたけど、その前のアフリカからヨーロッパやアジアへをみていくのが先に来ていた。スケールの壮大さが分かってこの順番はこの順番で良かった気がする。

まず全体観からいくと、一番大きなグループは4つに分かれているけど、そのうち3つまでがアフリカ系らしい。ヨーロッパやアジアの系統は残りの1つに一緒に入っているということ。著者も言っているけど、アフリカっていうと、形質的にも似たような系統の人がいるイメージを持っていたけど、遺伝的にはかなり多様性があるとのこと。

形質的にも良く見ていけば、身長も140センチを切るような集団から180センチを超えるような集団もあり、多様性がある。このあたりはイメージだけでとらえたらいかんなーと改めて思った。

後半の方で日本人の話が詳しく解説されている。DNAのサブグループで言うと、15種類以上の集団がある。日本人っていうと単一の系統の集団みたいなイメージがあるけど、実は遺伝子グループとしては結構多様。ヨーロッパ人の系統も混ざっている。

「日本では歴史時代に外国からの侵略や大量の移民などがなく、私たちは長い間、同族集団として暮らしてきたような感覚を持っています。しかし実際には過去に集団のDNA構成を大きく変えるようなヒトの流入も経験していますし、長い歴史のなかでわずかではありますが、外国からヒトが流入し続けています。彼らが持ち込んだDNAは時間をかけて私たちの集団のなかに広がり、集団のDNA構成はそれによっても変化し続けています。
 そもそもヒトの地域集団というのは、日本のように四方を海で囲まれている地域でも固定されたものではなく、歴史のなかで入れ替わり、変化し続けているものだという認識は大切です」(p129-130)

言われてみれば当たり前なんやけど、なかなかこの認識は忘れがちやと思う。心に留めておきたい。


■国家の歴史という枠組みを超えた世界観
この本で扱われているDNAの分化とかの話は数万年とか数千年前とかいう単位の話。このスパンで見ると、国という枠組みとはまた違ったものが見えてくる。

本のテーマである日本人はどこから来たかっていう話ではあるけど、そもそもDNAが分化していったのは日本という国ができる前の話。これについて著者は次のように述べている。

「日本人の起源を考えるときには、私たちは無意識のうちに現在の日本の国土を意識します。朝鮮半島など周辺の地域は最初から別の歴史があると考えてしまいますが、この問題はそもそも国境もない時代のヒトの異動を考えているのですから、そのような偏見を取り去って考える必要があります」(p179)

国という枠組みを超えて、もっと大きな範囲での集団の成立について考えていくことが必要かもしれないとも述べている。また、次の観点も面白い。

「一般に歴史は、有名な個人や一族、あるいは王権や政権に起きたできごとを中心に語られるものですが、DNAが明らかにする歴史は、基本的には特定の人たちの話は出てきません。DNAの物語る歴史は、個人が持つDNAに刻まれた人類の歩みを手がかりに話が組み立てられていますから、必然的に私たち人類すべてが歩んできた道、日本人すべての成り立ちの物語となるのです」(p203)

こうした見方をしていくと、集団同士でいがみ合わなくても良いのではというアイデアも提示されている。
「私たちはしばしば国の成立と、集団としての日本人の成立を同じものと見なすことがありますが、このように見ていけば、両者は分けて考えるべきものであることがわかります。言うまでもないことですが、日本という国ができる以前に、日本列島には人々が住んでいました。人がいて国ができたということは、国というものの有り様を考えるときに、大切な認識だと思います。そしてわたしたちの直接の祖先である人々と、親戚にあたる人たちの子孫が日本の周辺には住んでいます。とかく国同士の関係は、近いところほど複雑になるのですが、そこに住んでいる人たちのルーツを中心に考えれば、本質的にはいがみ合う必然性がないことがわかります」(p205)

このあたりは理想論的なところはあるは思うけど、こういう考え方は1つの手がかりになるかもなーとも思った。単にDNAの話だけでなくて世界観の話にもつながる深い一冊やった。

2013年2月15日金曜日

「うつ病の常識はほんとうか」&自殺の常識はほんとうか


うつ病の常識はほんとうか

うつ病の定説について検証した本。タイトルはうつ病やけど、うつ病と自殺の話。

著者の書きぶりからすると、どちらかというと自殺者数の増加に関する定説(増えている)という事に対する反証に一番力が入っているように見える。

著者がこの本を書いたのも「日本の自殺の問題に対して、偏った情報しか世の中に伝えられていないのではないか」(p192)という疑問が一番のきっかけだったという。

「はじめに」のところから以下のような感じでエッと思うような話から始まる。

例えば、「現在の自殺率は日本経済が輝いていた70年台、80年台と比べてほとんど変わりないし、長期的には減少傾向ですらある」(p3)

著者は、いきなりこの話を言っても理解してもらえないくらいほとんどの人がこれと反対のことを信じているが、本書を読めば嘘ではないことが理解できると思うと述べている。


■定説は本当?
著者は、うつ病や自殺に関する定説について検証を行っている。
定説として挙げられているのは、例えば以下のようなもの。
  • 日本でバブル崩壊後に経済社会の低迷により自殺者が増えている
  • 真面目な人ほどうつ病になりやすい
  • 抗うつ薬は標準最大量投与しないと効果が十分に出ない
特にメディアではこうした定説がデータや事実による検証もなしにあたかも真実のように伝えられていることが多い。

著者が本書で言っている話は、上記の定説が完全に間違っていると言っているわけではないけど、事実やデータをもとに検証して見ていけば異なるものが見えてくるというようなことを言っている。


■自殺者は増えている?
特に、自殺者の増加についての検証の話が印象に残った。うつ病の話と自殺の話がどう結びつくかっていうのはそれはそれでまた検証が必要そうやけど、とりあえず本書で扱われているのは本当に自殺者は増加しているのか?という問い。

答えからいうと、自殺者が増えた一番大きな要因は、日本の総人口が増えたことであるというのが著者の主張。

言われてみれば当たり前やけど、人口が増えてそのまま自殺率が低下しなければ比例的に総数は増える。統計の見方の基本やけど、そのへんの基本的な確認すらせずに鵜呑みにするとなんとなく増えてるんだー大変な世の中やなーと思ってしまう…

総人口増加ともう1つ別の要因が人口構造の変化。若い人、特に子どもよりは中高年の方が自殺率が高い。少子高齢化が進めば当然これまた総数は増える方向にいく。

性別や年令を考慮した上で標準化した自殺率は数十年のスパンで見ても特段上がっているわけではない。

これは癌も同じで、癌で死亡する人は年々増えている。現在約30万人の方が癌で亡くなっているけど30年前は約15万人で30年間で約2倍になっている。

これだけ聞くと、大気汚染等の環境悪化とかいろいろ要因を考えてしまうかもやけど、標準化するとむしろ30年間で約20%低下している。

癌のリスクが増えたのではなく、癌のリスクが高い高齢者が増えたのが大きな要因であるという話。

このあたりは専門書でもちゃんと標準化したデータをもとに議論されることは少ないらしい。このへんは前に読んだ「事実に基づいた経営」の話とも通じると思う。

つくづくイメージだけでとらえるのは気をつけんとなーと思った。


■自殺の過剰報道
しかし、自殺の過剰報道はさらなる自殺を誘発するという話はホントこれから注意していかんとと思う。

具体例として紹介されているのは1933年に伊豆大島の三原山火口へ投身自殺を行ったという事例。当時、報道が加熱し、それをみて影響を受けた数百名が三原山火口で身を投げたということ。

この例だけでなく、統計的にも自殺報道やマクロな統計数字を連呼すると自殺を誘発することが示されているらしい。

WHOでも指針が作られていて、その1つが以下。

「「自殺の流行」もしくは「世界で最も自殺率の高い場所」といった表現は避けるべきである」(p17)

特に子どもや落ち込んでいる人にはあまりこういう情報に触れさせないようにした方がいい気がする…

著者も次のように述べている。

「現在の日本の自殺者数が3万人を超えていることは事実である。しかしその説明にあたっては、科学的にかつ冷静に行わないといけない。日本社会がおかしくなったので、自殺者が増えているという安易な説明は、科学的におかしいし、自殺対策としても間違っている。そういった説明を真に受けて、世の中を悲観し、自殺を考える人もいるとしたら、有害ですらある」(p32-33)


■うつ病は真面目な人がなる?
日本では、うつ病は真面目とか几帳面で他者配慮性の高い人がなりやすいという説が広まっているけど、それについても検証している。

日本人は一般的に真面目、几帳面、他者への配慮が高いというイメージがあるので、それと上記の説がマッチしたので受けいられやすかったのではという主張。

実際にはその性格だけで一概に言えるわけでもないし、国民性の観点から比較して真面目な日本やドイツは、国際比較するとむしろ他国(特にアメリカやニュージーランド)の方が高いという話。

その例として、以下のような話をあげている。
「どんな性格の人がうつ病になりやすいかという質問は、どんな人が交通事故を起こしや
すいか、という質問に似ている。
 交通事故を起こしやすいのは次のような人々ではないだろうか。

 危険運転をする人
 運転が下手な人
 注意散漫な人
 高齢者で認知機能が落ちている人
 飲酒運転をする人
 過剰に慎重すぎる人

 おそらくこういった様々な人々が、交通事故を起こしやすいのではないかと思う。交通事故を起こす原因は多種多様で、特定の人々だけが交通事故を起こしやすいと説明するのは難しい。交通事故を起こす人々は、それぞれ異なる背景を持った人々の集合体であるからだ。
 同じように、うつ病患者の性格も様々である。特定の性格の人々だけがなるわけではない。もちろん対人不安や神経症傾向といった特定の因子が強ければ、多少はリスクが高くなるのかもしれない。しかし人間の性格は様々な因子の相互作用から成り立っており、それぞれの因子が独立したものではない。性格の様々な要素を総合的に見ることが必要だ。特にストレスを受けた時のその人の思考パターンや対処行動が大切である。」
(p111-112)


■うつ病について学ぶことは病気の知識を得るだけではない
「うつ病について学ぶことは、単に病気の知識を得るだけではなく、それ以上の価値を与えてくれる」(p8)と述べている。

確かに、本書はうつ病や自殺について学ぶだけでなく、定説に対する見方とか、辛いことがあった時のイメージの持ち方とかいろんな視点で気づきがあった。

上記の著者の言葉にこめられた想いが本書にもあらわれていると感じる一冊やった。


2013年2月14日木曜日

「伝説のホテルマンが説く IT企業のホスピタリティ戦略」から学ぶホスピタリティによる差別化

伝説のホテルマンが説く IT企業のホスピタリティ戦略―ISFnetの成長モデルにみる技術者を営業マンに変える法

■概要
リッツ・カールトン大阪で営業統括支配人を務めた経験を持ち、クレド研修やホスピタリティについての本を書かれていたり講演を各地で行ったりしている方が、IT企業とホスピタリティというテーマで書かれた本。

熾烈な企業競争で「紙一重」の差が出るとしたら、「サービスの差」であるという話から始まり、サービスで差をつけるために「ホスピタリティ」を身につけることが重要で、IT業界もその例外ではないという話。

実際の例として、株式会社アイエスエフネットでの研修やその後の変化を紹介している。本の内容は、前半がアイエスエフネットの紹介で、後半がホスピタリティやマナーについての話。


■IT業界と「ホスピタリティ」
「ホスピタリティ」というと、一見、ホテルやレストラン等のイメージが強く、IT企業とつながるイメージは薄い。

しかし、著者は、IT企業でもホスピタリティは必要であり、実践できることを説いている。というか、むしろこれからはより大事になってくるという見方。

一昔前の(今も?)IT企業では、技術が重要視されるので、技術があればホスピタリティやマナーは欠けていてもしょうがないとされることがあったという。

お客様に対しても、嫌いだからずっと横を向いたまま打ち合わせに出るといった横柄な態度をとる技術者がいても、技術を持っているので仕方なく受け入れていたということ。

自分の周りではあんまりそこまで極端な事例は見ないけど、確かにホスピタリティやマナーといった話はそんなに重要視されないような気もする。

一昔前に対し、今では、技術者の数も増え、新しい技術の導入により技術自体による差別化は難しくなっている。そこでホスピタリティという流れ。

この話を聞いて思い出したのはザッポスの事例。靴の通販サイトのコールセンターに電話がかかってきた時に、関係のない話題であったり、延々と長く続くような電話であっても丁寧に対応していくことで高い顧客満足度を実現しているというような話やった。

技術でいくかホスピタリティでいくかとかは企業のカルチャーによるところもあるから合う合わないあるやろうけど、確かに、今はまだあまりホスピタリティという軸で差別化しようとしているIT企業は多くない気がするからこちらの方が差別化しやすいのかも。

あと、技術重視でいくとしてもある程度はホスピタリティ的な側面も無視はできんかもなーとも思った。そんなところで考え方としては1つの参考になるなーと思った一冊やった。

2013年2月11日月曜日

「聖おにいさん」好きな人は楽しめる気がする「完全教祖マニュアル」

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

タイトルからして怪しいし、語り口も軽いけど
中身は意外に「なるほど」と思える部分も多く、結構面白かった。
語り口やテーマの扱い方が合う合わないがあるやろうとは思う。

合わない人は読めば読むだけイライラするような気もするけど(^^;)
それが気にならない人で、知的好奇心ベースで読むのであれば面白いと思う(自分はこっち)。
マンガの「聖おにいさん」が好きな人であれば楽しめる気がする。

特に、宗教を機能的にとらえるとどうなるかという視点で見ているし、
宗教の教えとかがどう人間心理に影響しているかという説明もあり、
企業を始め組織運営全般に通じる話も結構あって
普通に参考になったりもする。


■語り口
とりあえず、目次をみるだけでもどんな語り口か分かる。
大きな章立てはこんな感じ。
  1. キミも教祖になろう!
  2. 教義を作ろう
  3. 大衆に迎合しよう
  4. 信者を保持しよう
  5. 教義を進化させよう
  6. 布教しよう
  7. 困難に打ち克とう
  8. 甘い汁を吸おう
  9. 後世に名を残そう
章の中のトピックはこんな感じ。
例えば、「教義を作ろう」という章のトピックは以下。
  • 既存の宗教を焼き直そう
  • 反社会的な教えを作ろう
  • 教えを簡略化しよう
  • 現世利益をうたおう
各章末にはチェックリストまでついている(笑)
  1. 神は用意できたか?
  2. 教えは反社会的か?
  3. 社会的弱者を救えるか?
  4. インテリは抱き込んだか?
  5. イケてる哲学はできたか?
文章も冒頭からしてこんな感じ↓

「教祖は決して難しいものではありませんし、特別な才能や資格も要りません。たとえば、ベツレヘムで生まれた大工の息子も、三〇歳を過ぎてからのたった三年間の活動で、世界一有名な教祖としてサクセスしたのです!」(p7)

後の内容もこんな感じがずっと続く(笑)


■意外に基礎知識が必要?
ただ、単に軽い語り口で全部完全にふざけているわけではなく
ある程度の下調べを踏まえた上で書かれているので
わりと基礎知識がないと、出てくる事例の話が
すんなり頭に入りにくいと思う。
(お笑いのネタで元ネタを知らないネタを見た時の
 ポカーンとした感じが近いかも)

また、コラムで結構真面目なことが書かれていたりする。
そんなこんなである程度基礎知識あった方が面白いと思うので
高校世界史の教科書くらいの知識を復習するか
池上彰さんの本とかでマジメな入門知識をつけてから読むと
スパイスがきいて楽しめるかもと思った。


■不合理に見えることも実は機能的
本の内容は、新しく宗教を作る、あるいは、
宗教を運営する立場からの視点で説明されている。

著者自身もあとがきで書いているけど
そういう視点で書かれた本ってあんまりない気がするので
結構その視点だけでもユニーク。

また、新しく作るためにどういうことを考えると良いか
という体の説明をすることで、同時に、
既存の宗教の仕組みを解説している形にもなっている。

一見不合理に見えることも運営の側から見たら
結構機能的なことってあるんやなーっていう視点が得られて
そのあたりは結構面白かった。


■なぜ食物規制があるのか
例えば、なぜ食物規制があるのかという話。

これは食事という日常の中で
自分は〇〇教徒だから△△を食べられないということを
毎日毎日認識することで、自分の特殊性を実感し
信仰が強化されることにつながっているという解釈。

もちろん、これが正解かどうかは分からないけど
1つの見方としては面白かった。

著者自身もこの本で書いているのは
著者の解釈であり、そういう意味では1つの宗教です
というようなことを言っている。


■日本人の宗教アレルギー
最後に、序章の中で書かれていたある一節を紹介。
読者(これから宗教を作る、布教しようとしている人)に向けて
「キミも教祖になろう」という文脈の中で書いた内容。

「日本人の宗教アレルギーは、逆に考えると、付け入る隙でもあると言えます。というのは、彼らは宗教を頭ごなしに嫌うあまり、宗教に対して無知なのです。また、戦前の国家神道の反動で、戦後は宗教について教育で触れることがタブー視される傾向にあります。実際、学校でも高校までは宗教のことなんてほとんど教えてくれませんよね?しかし、知識がないということは、つまり、耐性がないということです。彼らは無菌室育ちで免疫がないのですから、これは狙い目というわけです。」(p21)

「日本人の無信仰者も「なんとなく霊的なもの」は感じています。ですが、彼らにはその「霊的な感じ」をどう表現すれば良いのか分かりません。宗教的知識がないために、それを語るボキャブラリーがないからです。ですから、そういった人にピンと来る言葉や概念を与えてあげれば、「ああ、オレが今まで感じてたのはそういうことだったのか!」となるわけですね。この言葉や概念の違いで、その人はキリスト教やイスラム教や仏教などに入信するわけですが、もちろん、あなたの新興宗教に入信する可能性だって十分にあるのです!」(p22)

こういうことを考えていくと、「宗教」って聞いた時に
なんとなくアヤシイと思って全く触れないようにするのではなく
やっぱある程度は親しむというか、関心を持って知っていく方が良いし、
そういう意味ではこの本も読んで悪くないっちゃないかなー
というようなことを思った一冊やった。

2013年2月8日金曜日

「つながる脳」を研究する難しさと面白さ

つながる脳

社会性と脳の関係を研究している方の本。脳研究の内容の解説というよりは、研究記みたいなイメージ。

著者自身もあとがきで次のように述べている。

「この本では、最近の僕の頭の中に溜まっていた、いろいろな妄想や経験をざっくり書き出してみました。研究内容も進行過程のものばかりですから、最終的な結論はどこにもありません。もしかしたら間違っているかもしれません」(p273)

こうした状態で研究者の方が本を出すのは勇気がいると思う。研究途中の話が多いので、ズバッとした答えのようなものは述べられていないけど、それだけに、研究を進める中でどういうことがこれまでや今課題となっていて、それに対して著者がどういう姿勢で考えながら取り組んでいるのかというのが述べられていて興味深い。

トピックはさまざまでそんなにまとまっている感じではないけど、新しいことにどうやって取り組んでいくのかという話は研究に限らず参考になる。


■社会性に関わる脳の研究の難しさ
もう少し具体的に言うと、これまでの脳研究の多くは、動物を対象にするにしても人間を対象にするにしても、いずれもできるだけ環境や実験の条件を固定して、一定の環境下で調査していた。

これは、一定の条件下でないと科学的でなく研究として認められないという考え方によっているけど、脳の研究、特に社会性を調べる場合は条件を固定していると逆に本質に近づけないというのが著者の考え方。

例えば、友達関係のネットワークについて以下のような表現をしている。

「ネットワーク構造を正しく知るにはどうすればよいのでしょう。まず、それぞれの生徒は自分の視点からの情報しか僕たちに与えてくれません。ですから少数の子供たちから話を聞いただけでは、友達関係の片思いを見逃すこともあります。また、昨日までは友達だったけど、片方の不用意な一言で関係性が一方的に途絶えるというようなこともありますから、友達関係の構造は、いつそれを聞くかによっても答えが異なってきます。つまり子供たちのもっている友達ネットワークの本当の構造を知るには、同時に全員から話を聞き続けないといけないことがわかるでしょうか。
 同じことが実は脳科学にも言えるのです。今までの代表サンプリング方式の脳神経活動記録方法では、たとえサンプリングバイアスがあまり大きな影響を与えていないと経験的にわかっていても、一〇〇人の子供のうち、せいぜい五人くらいから話を聞いているのに等しいと言えます。しかも、バラバラの時期に話を聞いているので、その情報をいくら集めても正しい全体像が見えてきません。いったい誰と誰の仲がいいのか、トラブルの原因は誰なのか、クラスをまとめるキーパーソンは誰なのかなどは、全員から同時に話を聞かないかぎり正しい答えが出てきません。しかも正しい状態を理解するには、子供たちから定期的に聞き続けて相関図を更新し続けなければなりません。
 それと同じことを一〇〇〇分の一秒ごとにたくさんの神経細胞に聞き続けないといけないのか脳科学なのです」(p60-61)

人と人がコミュニケーションを取る時には、相手の反応や周囲の条件などは刻一刻と変わっていっている。

その中での動きを把握するには、研究室の中や実験器具の中で閉じこもって一定の条件下だけの動きをみていても、実際の活動の中での脳の活動の状態とは離れてしまう。

ということで、もう少し違ったやり方を模索しているという話。こういうふうに難しいところがある、でもだからこそ面白いし開拓の余地がたくさんあるのかなーと思った。


■社会性研究に必要な実験条件
著者はサルを対象とした研究を行なっているけど、その条件はこのような感じ。

1.実験の対象にするのは、最低でも二頭以上のサル
2.サルには好きなように行動させること
3.サルの振る舞いと環境情報のすべてを記録して、脳活動と関連づけできるようにすること
4 サル問の社会的な関係性はサル任せにすること
5.脳からの記録はできるだけ広い領域から記録すること
(p18)

これらは、これまでの実験条件と全く反対のもの。ほとんどの研究者が避けるか排除していた条件ばかり。

しかし、著者は社会性、サルとサルとの関係性を調べるにはこれを調べることが不可欠と考え、実験を進めている。

具体的には、これまでの実験条件を覆すような形で実験を設定して研究を進めていて、これまでの実験手法の何倍もの効率で解析ができる手法を生み出しているということ。

その詳しい話は本書に書かれているけど、その内容よりも、上記のように発想の転換がなければそもそもその手法を考えだすところまでいきつけなかったと思うという意味で、考え方のところが参考になった。


■下位のサルと上位のサルはどちらが賢いか
著者は上位と下位の関係付けがされたサルの行動を調べているけど、この中でどちらのサルが賢いかという話が興味深かった。

もともと著者は、そもそも上位のサルの方が賢いから上位でいられると考えていたが、実際は逆のようだということ。著者は次のように述べている。

「本当に賢いのは、むしろ苦労している下位のサルの方なのです。この話をすると、中間管理職として苦労されているのか、みなさん必ずニヤリとされます」(p134)

もう少し具体的には、上位のサルは好きなように振る舞えるけど、下位のサルはそうではない。

上位のサルと競合状態になったら、自分自身の行動を抑制しつつ、チャンスを伺ってエサをとったりと、生き残るためには気を配り続ける必要がある。周囲の状況や相手のサルの樣子を見ながら瞬間的に判断しながら行動する。

こうしたことから、下位のサルの方がより高い知性が必要とされるということが述べられている。このへんはなかなか含蓄がある。


■賢さとは
その他の話として、「賢さ」についての以下の話が印象に残った。「賢さ」の定義の仕方っていろいろあるけど、こういう見方もあるなーというのはなかなか面白かった。

「僕たちは一般に、この適応能力が高い生き物を、賢い生き物だと感じるように思います。たとえば極端な例ですが、金魚とクマムシを比べてみましょう。クマムシ自体はヒトが行うような知的活動を何ら行わない生き物ですが、真空でも極寒でも警く生き残ることができるサバイバル能力で有名です。一方でちょっと暑くなっただけでプカリと浮かび上がってくる金魚を見ると、「金魚って駄目だな、やっぱりクマムシは凄い、賢い」ということになります。
 僕はいろいろな生き物を見て、その賢さを感じるたびに、逆に「賢さ」という言葉に違和感を感じていたのですが、「賢さ」をヒトに特有の知的機能ではなくて、「生命維持のための特定の適応能力の高さ」と考えれば違和感が少なくなることに気がつきました。ヒトはそういう意味で言えば、他の動物種にない多面的な賢さを身につけた生き物であるという点で際立っていると言えもちろん「賢さ」は異なる生物種の間だけでなく、同一種間においても各個体の知性をはかる目安となるでしょう。会社や学校でも、さまざまな状況の変化に適切に対応して、上手に波乱の波を乗り切るヒトがいますよね。管とは本来、何かをどれくらい知っているかというような静的な能力のことではなく、どれくらい多様な状況に対応して一瞬で自分を変えることができるかという動的な能力のことを言うのだと僕は思います」(p27)


最新の脳科学の研究の話から、新しいことにどうやって取り組んでいくか、賢さとは、知性とは等、社会性に関する様々なトピックについて考えるネタがいろいろとある一冊やった。

2013年2月6日水曜日

森に対する常識を疑う視点を学べる「森林飽和―国土の変貌を考える」

森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193)

20世紀から始まり今も続いていく国土の変化…それを一言で言うと「森林飽和」であると言い切った本。

「私たち現代日本人は、列島の歴史上かつてないほど豊かな緑を背景にして生きている」(p5)

20世紀に至るまでは、日本の山は、はげ山が多く、現在のように緑に覆われた光景は20世紀以降のものであるということを、様々な資料を元に指摘している。

今からは想像がつかんけど、写真や絵も結構入れられていて、昔の風景を見ると確かにはげ山が多い。

こうした国土の変化について、マスコミの報道とか巷間のイメージではなく、事実や調査ベースで理解した上で、今後の国土の方向性について考えるべきということを訴えた内容。土砂崩れのメカニズムなども丁寧に解説されていて勉強になる。

国土の変化の推移を学べるだけでなく、今当たり前と思っていることについて少し歴史を振り返るとまた違ったものが見えてくるということにも気付けて興味深かった。


■かつての里山ははげ山かやせた森ばかりだった
少なくとも江戸時代中期から昭和時代前期頃までの里山にははげ山が多かったという。山の地肌が見えていて、土砂崩れや洪水も多い。そこから流れ出した土砂で、砂浜は今よりもっと長く、海岸沿いでは飛砂の問題に悩まされていた…

今発展途上国に行くと、山々ははげ山か劣化した森か草地が多いけど、かつての日本もそういった状況であった。そこからかなり変化してきたということが色んな角度から繰り返し語られている。

確かに今の状況を元に考えるとなかなかイメージしづらい。里山っていうとなんか良いところっていうイメージもあるし。これについて著者は次のように述べている。

「マスコミ論調の氾濫から、かつての里地・里山システムはそのすべてが持続可能な社会のお手本であったかのような錯覚が、国民の間に生まれているように思われてならない。実際の里山生態系にははげ山もあった。アカマツの目立つ柴山も草山もあった。そして、このシステムの中に、人々の貧しい生活もあったのである」(p67-68)

著者も言うように、よくよく考えると、狭い国土で資源も限られているので、森林資源は重要な生活や経済資源としてかなり使われていたはず。本書でも木材としての利用の他、鉄や塩、焼き物などを作る際の燃料としての利用圧力もかなり高かったことが紹介されている。そう考えるとはげ山や貧弱な森が多かったのも頷ける。


■明治の荒廃をピークに森林回復
明治・昭和を通じて法律が整えられて治山・治水事業もより制度的に進められるようになってくるけど、それはそれとして、昭和の中盤以降のエネルギー革命と肥料革命が森林のあり様にかなり大きな影響を与えたということ。

薪炭から石炭・石油へ、たい肥や緑肥から化学肥料へという変化によって、森林の利用圧力が減っていき、これによって森が回復し始めた。さらに輪をかけたのが林業の衰退。

戦後間もない時期は儲かったのでどんどん木が植えられたけど、それが育つ頃にはあまり儲からなくなり、伐採されずそのままに。


■国土の変化を理解することは日本の未来を考える上で不可欠
こうしたことから森林は回復。ただし、緑は量的に飽和しているのであって、その中身を見るとどれだけ充実しているかというとまた異なり、質の面では多くの問題がある。

しかしながら、量的回復の効果や影響や、森林の変遷の認識がなくては、様々なことを適切に議論していくことはできないというのが著者の主張。著者は次のような問題意識を持っている。

「わが国の国土環境は二十世紀後半に大きく変貌した。そのため現代日本人は、江戸時代はおろか二十世紀半ば以前の国土環境すらどのようなものであったかを忘れてしまっている、あるいは十分理解していないと私は考えている。それは二十一世紀に日本が目指すべき自然との共生、さらには持続可能な社会の構築を進める際に、大きな欠陥となるのではないかという危惧を抱いている。かつての日本人がその中で暮らしてきた国土環境の正確な理解とその変貌の本質的理解なくして、これからの海岸地域、河川、森林などの適切な管理―その保全と利用―はありえないと思われる」(p36)

また、次のようにも述べている
「山に森があり木々がたくさんあることを、あたり前だと思っている人はどうやら少なくない。この思いこみに立って「森が減っているからどうしようか」と考えることと、「増えている森をどう扱おうか」と考えることとでは、その結論がまったく異なってくるだろう。これは私たちが国土をつくっていくうえで見過ごすことのできない問題である」(p253)

確かに、今はこうした側面はあまり焦点を当てられないので、認識した上で話を進めることが重要やというのには共感。


■マスコミに惑わされない
マスコミ等では、広葉樹林に比べてスギ・ヒノキ等の針葉樹人工林が悪者扱いされることが多い。確かに違いはあるけど、一概に悪者扱いしていると間違った理解を招くことがある。それに関していくつかの研究や調査結果が紹介されている。

  • 森林は林齢が20年を越えれば表層崩壊をほぼ食い止めることができるが、それは針葉樹だろうと広葉樹だろうとあまり関係がない
  • 洪水等の際に流木として流出してくる木は人工林由来のものだけでなく天然林由来のものもあり、それは上流の面積比と一致する(人工林からだけ木が流出してくるわけではない)
  • 健全な森林土壌を持っていればスギ・ヒノキの人工林であっても十分に水源涵養機能を発揮できる(もちろん土壌がしっかりしてないとダメだけど広葉樹林に一概に劣るわけではない)

これに関連して、戦後のマスコミの森林利用に関する論調も考えされられるものがある。

「第二次世界大戦後の国土の荒廃は明治時代初頭にも劣らぬ激しいものだった。戦争による混乱に加え、戦後日本の復興に使える自前の資源は、減少したとはいえ、木材資源しかない。そのため奥山の天然林の乱伐が続いた。当時のマスコミはこぞって「なぜ豊富な木材資源を戦後復興に生かさないのか」と伐採をうながした」(p128)

今、天然林を伐採しようもんなら、マスコミから相当な非難がくるように思う。もちろん時代時代によって視点は変わってくるから、変わって当然とは思うけど、あまりにも鵜呑みにし過ぎると結局本質的なところを見失ってしまうというか、惑わされてしまうので、これに限らず気をつけんと。


■パラダイムの転換
最後に、上記とは別の角度の話として、著者自身の認識の転換の話が印象に残った。

著者は、「砂防」という分野で研究を続けてきて、学生時代には「ひとかけらの土砂でも出てこないほうが良い」(p243)ということを教わっていた。「砂防とは『土砂逸漏を防ぐ』の意味である」「砂防の極意は土砂の生産減で土砂流出を断つことである」(p243)という考え方。

しかし、現在では、河川に土砂の供給がないことで、生態系に悪影響を与えている面もある。それは森林や治山・治水事業に求められる機能が時代によって変わってきたことがある。

この変化を踏まえ、著者は、上記のような教えや言葉が「明確に否定されるべき状況が到来」(p243)していると述べている。具体的には、「山地保全の新しいコンセプトは、土砂災害のないように山崩れを起こさせ、流砂系に土砂を供給することとなるのだろうか」(p243)と述べている。

時代の変化はしょうがないとはいえ、それをしっかりととらえて、ある意味自己否定となるような発想の転換を行っている著者の姿勢が印象に残った。


実は、この著者の授業を大学の時に受けたことがあってそれで興味を持って読んでみたんやけど、予想以上に良い内容やった。もう少し砂防の専門的な話かなと思っていて、それも紹介されているけど、時間軸も空間軸ももっと広い視点から話が整理されている。この視点の持ち方や著者の発想転換の姿勢等も学ぶところが多い一冊やった。

しかし愛知県の演習林では80年以上も観測し続けているらしい。相手が森林やとスパンが長くなるとはいえ、この蓄積はすごいなー。実習で行ったことあるけど、機会があったらまた行ってみたい。

2013年2月4日月曜日

人づきあいの難しさは「社会化した脳」の話を読むと意外と割り切れるかもしれない(割り切れないかもしらんけど)

社会化した脳

さまざまな心の病と脳の働きとの関係を研究している方が書かれた本。

「社会神経科学」という社会学と神経科学をつなぐ学問をベースに、社会生活を営む上で必要な能力と脳のどの部分の働きが関係しているのかといった話が事例や実験結果と共に紹介されている。

元々は、著者の専門である「こころの病」「社会性の病」について書こうとしたものの、今回の本では健康なこころ(脳)の話だけでも興味深いことがたくさんあったのでそちらの話が中心になったということ。

全体的には、文章が平易で、イラストもイメージが分かりやすいものが多く、1つ1つの章も短くてテンポが良いので読みやすい。


■社会なしでは生きていけない
冒頭から平家物語で島流しにあった俊寛という僧の話から始めているのが面白い。3年間の流刑の間頑張っていたものの、妻と息子がすでに他界したことを知ると自ら命を絶ったという話を引き合いにして、次のように述べている。

「このような物語からは、私たち人間にとって、ほかの人々が周りにいること、つまり私たちが「社会」の中にいることは、私たちにとって衣食住が足りていることと同じようにかけがえのないことなのだな、ということを思い知らされる」(p13)

人と人とのあいだの相互関係は、空気のように普段は見えなかったり意識しないようなものだけど、絶海の孤島に流されるような極限状態を想像すると、その大切さが分かるという話。

メインの内容では研究の専門的な話とか専門用語とか出て来るけど、こういうイメージしやすい話がところどころ紹介されていて分かりやすい内容。


■社会的な能力と脳
社会でうまくやるための能力として次のような能力が必要になってくる。これらの能力と脳の働きとの関係が本書では解説されている。
  • 周りの人がいまどう感じているかとか、いま何をしたいと思っているかという情報をうまくキャッチする
  • 集めた情報をもとに社会の中で実際に適切に振舞う

(p24-25)

脳の働きというと、脳全体が1つのコンピューターのようになって、全体的に働いているようなイメージを持つけど、実際はそうではない様子。それぞれ脳の中の異なる領域が働いているらしい。

例えば、「危険」を察知する能力は「扁桃体」という部位といった感じ。扁桃体は危険察知だけでなく、社会的な情報を解読する働きもあるということ。


■顔で信用度を判断
これに関係して面白いのが、アメリカの神経科学者のラルフ・アドルフスという人が行なった研究。さまざまな人物の顔写真を被験者に見せて、それぞれの顔が「どのくらい信用できますか?」と質問。

結果、ある程度ばらつきがあるとはいえ、この人は信用できそう、信用できないといった判断はそれなりに一致するらしい。つまり、信用される、されない顔つきがあるということ。

そこで、脳の扁桃体に損傷を受けた人にこれらの顔写真を見せると、損傷を受けてない人が信用できないと判断した顔も信用できると答えてしまうらしい。

この話の際に、外国に行った時にタクシーのドライバーがたくさん寄ってきた時に、どの人に頼むかというシーンのイメージが書かれていて、自分もインドに行った時に経験したことを思い出しながら読めて面白かった。確かに判断しづらいので結局顔つきとか話しぶりで選んじゃうよなーと。


■性格のせい?脳のせい?
こういうのをいろいろ読んでいくと、社会性がないとか、空気が読めないとか、はては暴力とか犯罪の傾向とかも脳の働きが関係している部分があるように見えてくる。

社会性の欠如が教育や環境のせいなのか、脳や遺伝子のせいなのかというのは長い議論があるらしいし本当のところは自分にはよう分からん。

ただ、人づきあいがうまくいかない時には相手の性格とか生い立ちに原因を求めるよりは、脳や遺伝子のせいだから仕方ないと割り切った方が意外とストレスたまらなかったりしてと思ったりした一冊やった。

脳のせいやからしゃーないな、みたいな。まあそれで割り切って諦めちゃってもそれはそれで良くない時もある気もするので難しいところやけど…

このへんのテーマは興味深いのでまたいろいろと読んでみようかな。

2013年2月3日日曜日

「社会力を育てる」のに参考になる事例や視点を学べる一冊

社会力を育てる――新しい「学び」の構想 (岩波新書)

日本とか社会のいろんな問題の解決に向けてどうしていけばいいのか、その答えが「社会力」にあるという内容。

そしてそれは勝手に育つものではなく、タイトルにあるように「育てる」必要があるということ。ただ、どう育てるのかはあんまり答えがない。

全体的にあんまり話がまとまってないとういか、そんなに整理されている感じではないけど、いろんな学術的成果の紹介があってそのへんは1つ1つは結構参考になる。


■社会力は後天的なものだけではなく、先天的に備わっているものもある
著者のいう社会力の定義は
「人が人とつながり、社会をつくる力」(p65)
というもの。

これだけだとぼんやりした感じやけどなんとなくのイメージで話が進む。

それはそれとしてしょうがないとして、面白かったのが、社会力は先天的な部分もあるという話。

社会的なコミュニケーションの上で必要となる能力って後天的に身につくようなイメージがあるけど先天的に備わっている部分もあるらしい。

発達心理学者のプレマックという人の実験の話。

「プレマック氏は、さらに、ヒトの赤ちゃんは、二人の人間がいてそれぞれがある行いをしている様子をみて、それが相互行為として掌れている行為であるか、他の人と関係なく行われている単袖行為なのかを区別することができるとも報告している。そして驚くべきことに、二人が相互行為している場面では、一方が他方の目標志向な行為を助けている行為なのか、妨害している行為なのかも区別しており、助ける行為をプラスに評価し、妨害する行為をマイナスに評価するとも報告している(長谷川監訳『心の発生と進化』)。
 ヒトの子が備えている先天的な能力は何ともすごいものだと言うしかないが、ヒトの子が、人と人との相互行為の内容についても判断する能力を備えており、助けたり支援したりする行為の方を選好(prefer)する性向をもっているという事実は、互恵的協働社会の可能性を考える上できわめて心強い生物学的な根拠になる。」
(p122-123)

本当かどうか判別するだけの知識は持ってないけど、一つの見方として面白いなと思った。


■精密コードと限定コード
もう一つ印象に残ったのが精密コードと限定コードという話。

「バーンシュタイン氏は、家庭で親たちが話す会話の仕方や、その時使う言葉に注目し研究した。そして、気づいたのが上層階級の親たちが使っている言葉と、下層階級の親たちが使っている言葉に大きな違いがあるということであった。どう違うのかといえば、上層階級の親たちは「精密コード」と分類される言語を使い、下層階級の親たちは「限定コード」と分類される言語を使っているということである。
 精密コードにしろ限定コードにしろ、一般にはやはり馴染みのない言葉である。そこで具体的な例をあげて説明すれば、公園で遊んでいた子どもが近所の家の窓ガラスを割ったことを誰かに説明する時、上層階級の親は「公園でボール遊びをしていた三人の男の子がいて、そのうちの一人が誤った方にボールを投げてしまい、公園の傍に建っていた家の窓まで届いて、窓ガラスを割ったそうよ」(精密コード)と言うが、下層階級の親は「遊んでいた子がボールをぶつけて窓ガラスを割ったそうよ」(限定コード)と言うという。子どもたちが遊んでいた様子を公園で実際に見ていた人なら、限定コードで話されても事の成り行きを理解できるが、公園にいなかった人にはそこで何が起こったのか正確にはわからないはずである。
 このような事例を多く集めて考察した結果、バーンシュタイン氏が結論づけたのは、教育レベルが高く教養も豊かな親たちが話す言葉に慣れた上層階級の子どもと、そうではない親たちが話す説明の乏しい言葉に馴染んだ下層階級の子どもでは、学校で先生が使って教えている言葉が基本的に精密コードであるため、授業の理解度に最初から差が出て、その差がそのまま学校のテストの成績となって表れ、大学に進学できるかどうかを決めることになるのだ、ということである。」(p40-42)

親の会話の仕方がかなり子どもに影響するんやなーと改めて思った。
自分も子どもに話しかけるときには話しかけ方とか考えんとなと思った。

他にもいくつか参考になる視点とか例があった。自分自身の社会力というのもあるけど、特に子どもにどう社会力を身につけさせるかということを考えるのに参考になる一冊やった。