2013年2月6日水曜日

森に対する常識を疑う視点を学べる「森林飽和―国土の変貌を考える」

森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193)

20世紀から始まり今も続いていく国土の変化…それを一言で言うと「森林飽和」であると言い切った本。

「私たち現代日本人は、列島の歴史上かつてないほど豊かな緑を背景にして生きている」(p5)

20世紀に至るまでは、日本の山は、はげ山が多く、現在のように緑に覆われた光景は20世紀以降のものであるということを、様々な資料を元に指摘している。

今からは想像がつかんけど、写真や絵も結構入れられていて、昔の風景を見ると確かにはげ山が多い。

こうした国土の変化について、マスコミの報道とか巷間のイメージではなく、事実や調査ベースで理解した上で、今後の国土の方向性について考えるべきということを訴えた内容。土砂崩れのメカニズムなども丁寧に解説されていて勉強になる。

国土の変化の推移を学べるだけでなく、今当たり前と思っていることについて少し歴史を振り返るとまた違ったものが見えてくるということにも気付けて興味深かった。


■かつての里山ははげ山かやせた森ばかりだった
少なくとも江戸時代中期から昭和時代前期頃までの里山にははげ山が多かったという。山の地肌が見えていて、土砂崩れや洪水も多い。そこから流れ出した土砂で、砂浜は今よりもっと長く、海岸沿いでは飛砂の問題に悩まされていた…

今発展途上国に行くと、山々ははげ山か劣化した森か草地が多いけど、かつての日本もそういった状況であった。そこからかなり変化してきたということが色んな角度から繰り返し語られている。

確かに今の状況を元に考えるとなかなかイメージしづらい。里山っていうとなんか良いところっていうイメージもあるし。これについて著者は次のように述べている。

「マスコミ論調の氾濫から、かつての里地・里山システムはそのすべてが持続可能な社会のお手本であったかのような錯覚が、国民の間に生まれているように思われてならない。実際の里山生態系にははげ山もあった。アカマツの目立つ柴山も草山もあった。そして、このシステムの中に、人々の貧しい生活もあったのである」(p67-68)

著者も言うように、よくよく考えると、狭い国土で資源も限られているので、森林資源は重要な生活や経済資源としてかなり使われていたはず。本書でも木材としての利用の他、鉄や塩、焼き物などを作る際の燃料としての利用圧力もかなり高かったことが紹介されている。そう考えるとはげ山や貧弱な森が多かったのも頷ける。


■明治の荒廃をピークに森林回復
明治・昭和を通じて法律が整えられて治山・治水事業もより制度的に進められるようになってくるけど、それはそれとして、昭和の中盤以降のエネルギー革命と肥料革命が森林のあり様にかなり大きな影響を与えたということ。

薪炭から石炭・石油へ、たい肥や緑肥から化学肥料へという変化によって、森林の利用圧力が減っていき、これによって森が回復し始めた。さらに輪をかけたのが林業の衰退。

戦後間もない時期は儲かったのでどんどん木が植えられたけど、それが育つ頃にはあまり儲からなくなり、伐採されずそのままに。


■国土の変化を理解することは日本の未来を考える上で不可欠
こうしたことから森林は回復。ただし、緑は量的に飽和しているのであって、その中身を見るとどれだけ充実しているかというとまた異なり、質の面では多くの問題がある。

しかしながら、量的回復の効果や影響や、森林の変遷の認識がなくては、様々なことを適切に議論していくことはできないというのが著者の主張。著者は次のような問題意識を持っている。

「わが国の国土環境は二十世紀後半に大きく変貌した。そのため現代日本人は、江戸時代はおろか二十世紀半ば以前の国土環境すらどのようなものであったかを忘れてしまっている、あるいは十分理解していないと私は考えている。それは二十一世紀に日本が目指すべき自然との共生、さらには持続可能な社会の構築を進める際に、大きな欠陥となるのではないかという危惧を抱いている。かつての日本人がその中で暮らしてきた国土環境の正確な理解とその変貌の本質的理解なくして、これからの海岸地域、河川、森林などの適切な管理―その保全と利用―はありえないと思われる」(p36)

また、次のようにも述べている
「山に森があり木々がたくさんあることを、あたり前だと思っている人はどうやら少なくない。この思いこみに立って「森が減っているからどうしようか」と考えることと、「増えている森をどう扱おうか」と考えることとでは、その結論がまったく異なってくるだろう。これは私たちが国土をつくっていくうえで見過ごすことのできない問題である」(p253)

確かに、今はこうした側面はあまり焦点を当てられないので、認識した上で話を進めることが重要やというのには共感。


■マスコミに惑わされない
マスコミ等では、広葉樹林に比べてスギ・ヒノキ等の針葉樹人工林が悪者扱いされることが多い。確かに違いはあるけど、一概に悪者扱いしていると間違った理解を招くことがある。それに関していくつかの研究や調査結果が紹介されている。

  • 森林は林齢が20年を越えれば表層崩壊をほぼ食い止めることができるが、それは針葉樹だろうと広葉樹だろうとあまり関係がない
  • 洪水等の際に流木として流出してくる木は人工林由来のものだけでなく天然林由来のものもあり、それは上流の面積比と一致する(人工林からだけ木が流出してくるわけではない)
  • 健全な森林土壌を持っていればスギ・ヒノキの人工林であっても十分に水源涵養機能を発揮できる(もちろん土壌がしっかりしてないとダメだけど広葉樹林に一概に劣るわけではない)

これに関連して、戦後のマスコミの森林利用に関する論調も考えされられるものがある。

「第二次世界大戦後の国土の荒廃は明治時代初頭にも劣らぬ激しいものだった。戦争による混乱に加え、戦後日本の復興に使える自前の資源は、減少したとはいえ、木材資源しかない。そのため奥山の天然林の乱伐が続いた。当時のマスコミはこぞって「なぜ豊富な木材資源を戦後復興に生かさないのか」と伐採をうながした」(p128)

今、天然林を伐採しようもんなら、マスコミから相当な非難がくるように思う。もちろん時代時代によって視点は変わってくるから、変わって当然とは思うけど、あまりにも鵜呑みにし過ぎると結局本質的なところを見失ってしまうというか、惑わされてしまうので、これに限らず気をつけんと。


■パラダイムの転換
最後に、上記とは別の角度の話として、著者自身の認識の転換の話が印象に残った。

著者は、「砂防」という分野で研究を続けてきて、学生時代には「ひとかけらの土砂でも出てこないほうが良い」(p243)ということを教わっていた。「砂防とは『土砂逸漏を防ぐ』の意味である」「砂防の極意は土砂の生産減で土砂流出を断つことである」(p243)という考え方。

しかし、現在では、河川に土砂の供給がないことで、生態系に悪影響を与えている面もある。それは森林や治山・治水事業に求められる機能が時代によって変わってきたことがある。

この変化を踏まえ、著者は、上記のような教えや言葉が「明確に否定されるべき状況が到来」(p243)していると述べている。具体的には、「山地保全の新しいコンセプトは、土砂災害のないように山崩れを起こさせ、流砂系に土砂を供給することとなるのだろうか」(p243)と述べている。

時代の変化はしょうがないとはいえ、それをしっかりととらえて、ある意味自己否定となるような発想の転換を行っている著者の姿勢が印象に残った。


実は、この著者の授業を大学の時に受けたことがあってそれで興味を持って読んでみたんやけど、予想以上に良い内容やった。もう少し砂防の専門的な話かなと思っていて、それも紹介されているけど、時間軸も空間軸ももっと広い視点から話が整理されている。この視点の持ち方や著者の発想転換の姿勢等も学ぶところが多い一冊やった。

しかし愛知県の演習林では80年以上も観測し続けているらしい。相手が森林やとスパンが長くなるとはいえ、この蓄積はすごいなー。実習で行ったことあるけど、機会があったらまた行ってみたい。

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