ほんとうの親鸞
「ほんとうの親鸞」読了。親鸞の名前自体はセンター試験の問題にも出るくらい有名だし、浄土真宗の信徒は、文化庁宗務課刊行「宗教年鑑」によると1300万人近いらしい。
■よくわかってない親鸞像
なのに、意外なほどにその実像っていうのはよく分かっていないことが分かって面白かった。
「歎異抄」とかは日本史の教科書にも書いてあって有名だけど、実は近代までは信徒の目に触れないように禁じられていて、近代になってから知識人が評価するようになったもので、
「浄土真宗という宗派の形成においては、『歎異抄』はまったく重要な役割を果たしていないのである」(p244)
ということ。
もう1つ有名な「教行信証」も、関連した経文の文章を集めたものであって
「経文や他人の文章の集成は、著作とは言えないし、親鸞自身が著作とは考えていなかった可能性が高い」(p190)
と。
さらに、法然との関わりもそこまで強いものだったかどうか分からないらしい。弟子ではあったとしても全体からみて高弟と言われるようなポジション出あったかは不明。
「親鸞自身は法然との近さを強調し、自らがその高弟であったかのように述べているが、それを証明する客観的な資料は存在しない」(p151)
じゃあどうやって広まってきたのかというところで著者の表現が面白い。
特に以下の3つ。
■親鸞という夢
親鸞の教え等がはっきりしないことによって逆にそれぞれの親鸞像を作り上げることができ、いろんな人がいろんな想いを投影できたという考え。それが広がりにつながったということか。
「要するに、親鸞にかんしては、その人物も、その生涯も、そしてその思想もひどく曖昧なのである。
逆に、曖昧であるがゆえに、後生の人間は、それぞれが勝手に独自の親鸞像を作り上げることができたとも言える。実像が明らかでない分、虚像を作り上げることが容易なのである。」(p19)
これを受けて、親鸞のことを掘り下げていく意味を著者は次のように述べている。
「親鸞に託された夢の正体を明らかにすることには、大きな意味があるはず」(p21)
「日本人は親鸞を通してどういう夢を見てきたのか。この本での作業は、日本人のもつ根源的な欲望を示すことにもつながっていくはずである」(p23)
■メディアとしての親鸞
これも面白い表現。
「親鸞は、自らを法然の弟子と位置づけ、法然の教えを伝えることに生涯つとめた。ことなる解釈をする者が出てくれば、それをただし、本来の信仰に引き戻そうとした。
その点で、親鸞は、宗祖と言えるような存在ではなく、むしろ媒介者であった。法然の説いた浄土宗信仰、阿弥陀信仰を他の人間たちに媒介する役割を果たそうとした。現代風に言えば、親鸞は「メディア」であった。」(p232)
ちなみに、これは親鸞に限らずキリスト教でも同じで、イエス・キリストもユダヤ教の革新運動、ユダヤ教とまったく違うものを作ろうとしたのではなく、すでに説かれていたことをベースに説いたとのこと。
その後の弟子たちが神格化していく。親鸞の場合は、弟子だけでなく、血を受け継ぐ者たちが基盤を作り上げる。
■迷いの僧侶
親鸞は今広がっているイメージでは、非常にはっきりした考えを持った強い人のように見えているが、実はそうではなく、迷いながら歩みを進めていたのではないかという見方。
「親鸞は、法然の忠実な弟子となり、専修念仏の教えに従おうとしていながら、揺れ、惑い続けた人物である。逆に、揺れや惑いがあったからこそ、東国の門徒たちは親鸞に従おうとしたのであろう。」(p248)
「カリスマも超人も、ほんとうはいない。ほんとうの親鸞は、私たちと近いところにいて、生涯にわたって、正しい信仰の道を追い求めつつも、揺れ、惑い続けた存在なのである。」(p249)
これに関連して「おわりに」の冒頭に書いてあった
「浄土真宗という宗派は本来、誕生すべきではなかった。」(p240)
という言葉がギョッとする。けど、それに続く言葉を読むと著者の意図が分かる。
「宗祖とされる親鸞の実像を追っていくと、その感を強くする。親鸞自身には、新たな宗派を起こそうという気持ちは微塵もなかった。親鸞はただ、法然の説く専修念仏の教えに忠実であろうとした。正確に言えば、忠実であろうとして最後まで揺れ続けた」(p240)
最後に、著者は
「この本を描き上げて、私のなかから親鸞に対する苦手意識は消えた。親鸞は特別な人物ではない。超人でも巨人でもなく、実は普通の人間なのである」(p252)
と述べている。このあたりの想いが「ほんとうの親鸞」というタイトルにもあらわれている。
■親鸞、ちょっと近くなったかもしらん…
自分が日本史を高校で勉強したときも、親鸞のことって苦手意識とまではいかなくてもよくわからない感じはあった。
この本を読んでそもそも分からないんだということが分かったことによって、逆になんか親しみを感じられるようになった。教祖としてではなく、人間としての親鸞像によってさらに近くなった感じがする。
前に読んだ聖徳太子はいなかったっていうことを論証していた本もやったけど、歴史って学校で習った時から新たな説や資料が出てきたりしているから、そういうのを知るとまた違った角度から見ることができて面白い。そういう視点をまた1つ増やせる本やった。
「ほんとうの親鸞」読了。親鸞の名前自体はセンター試験の問題にも出るくらい有名だし、浄土真宗の信徒は、文化庁宗務課刊行「宗教年鑑」によると1300万人近いらしい。
■よくわかってない親鸞像
なのに、意外なほどにその実像っていうのはよく分かっていないことが分かって面白かった。
「歎異抄」とかは日本史の教科書にも書いてあって有名だけど、実は近代までは信徒の目に触れないように禁じられていて、近代になってから知識人が評価するようになったもので、
「浄土真宗という宗派の形成においては、『歎異抄』はまったく重要な役割を果たしていないのである」(p244)
ということ。
もう1つ有名な「教行信証」も、関連した経文の文章を集めたものであって
「経文や他人の文章の集成は、著作とは言えないし、親鸞自身が著作とは考えていなかった可能性が高い」(p190)
と。
さらに、法然との関わりもそこまで強いものだったかどうか分からないらしい。弟子ではあったとしても全体からみて高弟と言われるようなポジション出あったかは不明。
「親鸞自身は法然との近さを強調し、自らがその高弟であったかのように述べているが、それを証明する客観的な資料は存在しない」(p151)
じゃあどうやって広まってきたのかというところで著者の表現が面白い。
特に以下の3つ。
- 親鸞という夢
- メディアとしての親鸞
- 迷いの僧侶
■親鸞という夢
親鸞の教え等がはっきりしないことによって逆にそれぞれの親鸞像を作り上げることができ、いろんな人がいろんな想いを投影できたという考え。それが広がりにつながったということか。
「要するに、親鸞にかんしては、その人物も、その生涯も、そしてその思想もひどく曖昧なのである。
逆に、曖昧であるがゆえに、後生の人間は、それぞれが勝手に独自の親鸞像を作り上げることができたとも言える。実像が明らかでない分、虚像を作り上げることが容易なのである。」(p19)
これを受けて、親鸞のことを掘り下げていく意味を著者は次のように述べている。
「親鸞に託された夢の正体を明らかにすることには、大きな意味があるはず」(p21)
「日本人は親鸞を通してどういう夢を見てきたのか。この本での作業は、日本人のもつ根源的な欲望を示すことにもつながっていくはずである」(p23)
■メディアとしての親鸞
これも面白い表現。
「親鸞は、自らを法然の弟子と位置づけ、法然の教えを伝えることに生涯つとめた。ことなる解釈をする者が出てくれば、それをただし、本来の信仰に引き戻そうとした。
その点で、親鸞は、宗祖と言えるような存在ではなく、むしろ媒介者であった。法然の説いた浄土宗信仰、阿弥陀信仰を他の人間たちに媒介する役割を果たそうとした。現代風に言えば、親鸞は「メディア」であった。」(p232)
ちなみに、これは親鸞に限らずキリスト教でも同じで、イエス・キリストもユダヤ教の革新運動、ユダヤ教とまったく違うものを作ろうとしたのではなく、すでに説かれていたことをベースに説いたとのこと。
その後の弟子たちが神格化していく。親鸞の場合は、弟子だけでなく、血を受け継ぐ者たちが基盤を作り上げる。
■迷いの僧侶
親鸞は今広がっているイメージでは、非常にはっきりした考えを持った強い人のように見えているが、実はそうではなく、迷いながら歩みを進めていたのではないかという見方。
「親鸞は、法然の忠実な弟子となり、専修念仏の教えに従おうとしていながら、揺れ、惑い続けた人物である。逆に、揺れや惑いがあったからこそ、東国の門徒たちは親鸞に従おうとしたのであろう。」(p248)
「カリスマも超人も、ほんとうはいない。ほんとうの親鸞は、私たちと近いところにいて、生涯にわたって、正しい信仰の道を追い求めつつも、揺れ、惑い続けた存在なのである。」(p249)
これに関連して「おわりに」の冒頭に書いてあった
「浄土真宗という宗派は本来、誕生すべきではなかった。」(p240)
という言葉がギョッとする。けど、それに続く言葉を読むと著者の意図が分かる。
「宗祖とされる親鸞の実像を追っていくと、その感を強くする。親鸞自身には、新たな宗派を起こそうという気持ちは微塵もなかった。親鸞はただ、法然の説く専修念仏の教えに忠実であろうとした。正確に言えば、忠実であろうとして最後まで揺れ続けた」(p240)
最後に、著者は
「この本を描き上げて、私のなかから親鸞に対する苦手意識は消えた。親鸞は特別な人物ではない。超人でも巨人でもなく、実は普通の人間なのである」(p252)
と述べている。このあたりの想いが「ほんとうの親鸞」というタイトルにもあらわれている。
■親鸞、ちょっと近くなったかもしらん…
自分が日本史を高校で勉強したときも、親鸞のことって苦手意識とまではいかなくてもよくわからない感じはあった。
この本を読んでそもそも分からないんだということが分かったことによって、逆になんか親しみを感じられるようになった。教祖としてではなく、人間としての親鸞像によってさらに近くなった感じがする。
前に読んだ聖徳太子はいなかったっていうことを論証していた本もやったけど、歴史って学校で習った時から新たな説や資料が出てきたりしているから、そういうのを知るとまた違った角度から見ることができて面白い。そういう視点をまた1つ増やせる本やった。
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