2012年10月20日土曜日

「嫌われる覚悟」を持つことによって嫌われる度合いが減る気もしてきた

「嫌われる覚悟 ほんとうの嫌われない技術」



  • 今回読んだ本…「嫌われる覚悟 ほんとうの嫌われない技術」
  • 思い出した本…「図解 自分の気持ちをきちんと「伝える」技術」


嫌われる覚悟によって気持ちを伝え合える
→嫌われる覚悟をすることによってそんなに嫌われなくなる?




著者は、対人恐怖症(社会不安障害)を患ったことがあり、引きこもりやニートの経験もある方。状態が悪い時は家族ともほとんど話せない時期もあったけど、そこから今はコミュニケーションの講座の講師をやるまでになっている。その内容は自身の経験を活かしたもの。

「もともとコミュニケーションスキルを備えている人がさらにレベルアップするような内容を提供するのではなく、コミュニケーションが苦手な人がいまよりも落ち着いて話せるような心のあり方をお伝えしたり、ちょっとしたコツで円滑な人間関係を築けるようなスキルを教えたりするのが得意」(p20)とのこと。

というわけで、本書の内容も、なんだかコミュニケーションは苦手だなーと思って頑張りすぎる人への心の処方箋的なものになっている。後半の方で書かれている対処法の話は、考え方を変えましょうとか、表現方法を工夫しましょうとかそういう感じなのでそのあたりは他の本とも共通やけど、「嫌われる覚悟」というキーワードづけがうまいと思う。この一語を知るだけでも割り切りができるというか、腹が据わる感じがする。

もう1つ、「たまには誰かから嫌われる技術」という表現も興味深かった。


■「誰からも嫌われない技術」ではなく「たまには誰かから嫌われる技術」
タイトルも目を引くけど、冒頭の文章もハッキリしていて引きこまれた。

「冒頭でいきなり逆説的なことを述べてしまいますが、コミュニケーション能力を向上させるには「人から嫌われてはならない」と考えるのではなく、「人から嫌われてもよい」と肩の力を抜くとうまくいきやすくなります。「絶対に嫌われてはならない」という前提でスキルを学ぶのと、「たまには嫌われてもよい」という意識でスキルを学ぶのとではついてくる結果がまったく異なるのです。

「人から嫌われてはならない」と思いながら人間関係を築こうとすると実は相当苦しくなります。相手に対して迎合的になり、いつも気をつかわなくてはならず、どっと疲れてしまいます。」(p3)

タイトルにも書かれているように、ポイントというか、著者の想いはこのあたりに凝縮されている感じ。

「「誰からも嫌われない人」など現実に存在しないのです。嫌われてほならないという価値観にがんじがらめになり、人と接するのが億劫になって疲れ果ててしまっているとしたら、いったいなんのためにがんばっているのでしょうか。人から嫌われたくないがために人間関係の築き方がぎこちなくなり、精神的にも疲弊してしまうのであれば、それこそなんのための技術なのかわかりません。幻想を追い求めても出口のないトンネルに迷い込むようなもので、自分自身をますます不幸にするだけではないでしょうか。

 長年コミュニケーション講座を運営している者として、これら間違いだらけのコミュニケーションの現状はとても嘆かわしいもので、講座の中だけでなく、なんとか一般の社会に向けて誤解をときたいという思いを常々持っていました」(p6-7)

「正確に定義すれば本書でめざすのは、「誰からも嫌われない技術」ではなく、「たまには誰かから嫌われる技術」になります。」(p21)



■半分ぐらいの人に好きになってもらおう
そして、このへんの話は

「図解 自分の気持ちをきちんと「伝える」技術」

という本で書いていた、

「とりあえず半分ぐらいの人、自分の好きな人に好きになってもらおう」

という話とも通じるなーと思った。






「もし好かれないことがあっても、それは自分の問題なのか相手の問題なのかを考えることです。自分が問題であれば、自分を変えてもよいし、変えないで好かれないことを選んでもよいのです。
相手があなたのどうしようもないことを好きでないと言うのであれば、それは相手の問題として相手に解決してもらうしかないかもしれません。また、あなた自身が相手とつき合わない決心をしてもいいのです。
すべての人を喜ばせるのは不可能です。
だから、まず今の自分を最大限に発揮して、「とりあえず半分ぐらいの人、自分の好きな人に好きになってもらおう」というあたりから始めることです。」

(「図解 自分の気持ちをきちんと「伝える」技術」p77)


■正規分布するから仕方ない
このへんに関連して、「嫌われる覚悟」の方でもう一つ、「正規分布」という概念を持ち出しているのは結構ユニークだった。

大体どんなものも正規分布になるとすると、「あなたへの好意度」を答えてもらったと仮定した時の答えは、例えばこんな感じになる。

(「嫌われる覚悟」p42の表)

要は、好きだという人もいれば嫌いだという人もいると。

「正規分布という概念を知っていると、「ああ、人に嫌われることがあるのは無理もないことなんだな……」 となんだか納得できるのではないでしょうか。誰からも嫌われないようにすることなんて到底不可能。統計学的にもありえないことなんだ、人に嫌われたとしてもそれは自然なことなんだ、とスッと腑に落ちることと思います。」(p42)

個人的にはあんまりこの説明はスッと腑に落ちなかったけど、こういう割り切り方もあるのかーっていうのは面白かった。


結局、こういう形で、嫌われる覚悟を決めたり、半分くらいの人に好かれてれば十分といった割り切りによって、自分の気持ちをきっちり伝えることができ、相手とも伝え合えるようになるのかなと。そうすると、嫌われる覚悟をすることによってそんなに嫌われなくなるんじゃないかなとも思った。


あと、以下のあたりの著者の想いは頷けるところも多かった。


■最後はあたたかい心で
「同じようにあなたの周囲にいる誰かも、苦しんでいるかもしれません。

 飲み会で誰とも話せず孤立している。いつも眉間に敏を寄せて難しい顔をしている。深い話をしたいのに友人がいないと悩んでいる。
 もしそういった方がいたとしたら、できる範囲で結構ですので、あたたかい気持ちで声をかけてほしいなと思います。
「自分から前に出ていけばいいのに」「もっと笑顔になればいいのに」と相手を変えようとするのではなく、ありのままのその人を受容しましょう。「孤立しちゃうとつらいよね」「眉間に雛を寄せちゃうようなことがあったんだね」「友人がいないと寂しいよね」。まずはそういった気持ちで接してはしいなと思います。」(p221)


■社会を豊かにするための「嫌われる覚悟」
「社会が豊かになるためには「同質性」と「異質性」の両方の視点が欠かせません。「同質性」とは簡単にいえば「周りと同じ」という意味です。似たものどうしであれば考え方も近いですし、何かを決めるときにもスムーズに事が運びます。相手を攻撃する必要もないですし、お互いを嫌いになる可能性も低いため里囲気がよくなります。社会が安定して成り立つためにはある程度似たものどうしが集まる必要があるのです。かといって、似たものどうしだけが集まって、仲よくやっていればそれで社会が豊かになるのかというとそうでもありません。
 「異質性」とは簡単にいえば「みんなとは違う」ということです。みんなと違うということはもしかしたら目立ってしまい、周囲の好奇の目にさらされることもあるかもしれません。しかし、見方を変えれば、別の角度からの考え方、個性を持っているということでもあるのです。ガリレオは地動説を唱えて、カトリック教会から嫌われました。ではガリレオは「嫌われる」からといって自分の説を曲げたでしょうか?ガリレオは意思を曲げず「嫌われること」を覚悟して、自分は自分としての生き方を貫きました。もしガリレオが「嫌われること」を恐れて自説を曲げていたら、はたしてそれが社会のためになったでしょうか。ちょっと極端な例ですが、異質であることは、ある意味で嫌われるリスクも高くなるということです。とはいえ、同時に豊かな社会を創るためのひとつの意見を自分が持っていると考えることもできるのです。
 ガリレオはある意味で、嫌われることを前向きに享受してそれでもなお、社会を愛するがゆえに嫌われたともいえます。いわば「嫌われる覚悟」を決めていたわけです。嫌われる、好かれるといった個人的な枠を超えて、社会のために主張する強さというのは、私たちも見習う必要があるのではないでしょうか。」
(p217-219)


自分が「嫌われる覚悟」を決めることで、自分が相手と違うことを認めることができ、それが逆に相手を受け入れることにもつながるのかなーと思った。「嫌われる覚悟」というのは、嫌われたまんまでもイイやっていうネガティブな割り切りではなくて、一度割り切ることによってより豊かな関係を築くための第一歩を踏み出せるというポジティブな割り切りなのかなーと。

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