今月読んだ本の中で一番面白かった!山形交響楽団という地方のオーケストラが飯森範親さんという指揮者の出会いによってどう変わっていったかという内容。映画化したら面白いんじゃないかと思う。
地方のオーケストラのサクセス・ストーリーとしても読めるし、経営やリーダーシップに関するビジネス書としても読めるし、子育て論としても読める。一冊で何度もオイシイ。
以下、ストーリーの簡単な流れと面白かったポイントについて。
■苦境の山形交響楽団
慢性的な人員不足と予算不足で価値や情報を発信できておらず、演奏する側のモチベーションもなかなか上がらないような状況にあった山形交響楽団。ここに飯森範親さんという指揮者の方を迎え入れたことをきっかけに大きく変貌を遂げていく過程を描いている。
事務局の人も、他の地域にセールスに行った時に
「おたくのオケに『山形』って名前がついてなかったらね」
と、何度も言われ、楽団の名称から「山形」を外すことまで真剣に考えたらしい。
そんなコンプレックスを抱えていたこともあってか、飯森さんに指揮者を受けてもらえないか頼みに行った際に、その場で飯森さんが「お引き受けいたします」と答えたことに自分たちでびっくりしてたらしい。
飯森さん自身もそのことを感じていて、その様子がこう描かれている。
「質が高く可能性を秘めたオーケストラだと思いながら、飯森にはいくつか引っかかる点があった。
コンプレックスを引きずったような斎藤らの態度を見て、断片的だった山響への様々な不満が、今はっきり形となって飯森の脳裏に像を結んだのである。」(p34)
■当たり前のことが当たり前に
そこから飯森さんが「マニフェスト」という形で事務局や楽団員宛にいろいろ要望を出していく。
細かなものから大きなものまで含めて様々で50以上にもなったとのこと。ただし、共通しているのはいかに観客のためになるか、観客にアピールできるかという点。
それらは、「東京の真似をしても仕方ない。山形でしか聴けない音楽を目指すべきだ」(p46)という目標に沿って実践されていった。
具体的な取り組みはたくさんあるけどいくつか例をあげると…
- 客が聴きに行きやすい日を選んでコンサートを開く
定期演奏会を金・土・日開催
それまでは月曜日とか木曜日とか平日のコンサートが多かった - 年間プログラムをA3のチラシから立派な冊子に
- プレ・コンサート・トーク(プレトーク)
その日に演奏する曲目について作曲家のエピソードや
その曲のポイントなど、ユーモアを交えて解説。脱線話もあり。 - 楽団員の登場の仕方の変更
以前はバラバラに出てきていたが一斉に登場してメリハリをつけるように。 - CDを出す
独自レーベルを持ってCDをリリース。 - スポーツ団体とのコラボレーション
モンテディオ山形のユニフォームを着て指揮。
ステージ上ではサポーター代表の方がフラッグを振る。
こうしたことを積み重ねて観客がより楽しめる演奏会になっていく。
印象的だったのが以下の一言。
「山響事務局の斎藤は、取材中に「飯森さんが来られてから、当たり前のことが当たり前にできるようになった」と何度もくり返した。」(p145)
そこから発展し、地方の一オーケストラに過ぎなかった山形交響楽団が、全国の音楽ファンから注目されるようになっていったとのこと。
■飯森さんの考え方
こうした取り組みを推進する原動力となっている飯森さんの考え方はとても学べるところが多い。飯森さん自身の言葉を引用しながらいくつか紹介すると…
音楽家はサービス業
「消費者のニーズをリサーチするアンテナを張ることで、それに敏感に反応しながら、常に先を行く、良い意味で消費者の期待を裏切るようなレアな商品を提供し続ける」(おわりに)
これは、どこかの企業の理念ではなく飯森さんが掲げる重要なコンセプトの一つ。
「音楽家は、サービス業です」とは、飯森の持論だ。
お客さまが何を求めているかを、飯森は常に考えている。」(p54)
「だって、どんなに完壁な演奏をしたって、ホールにお客さまがいなかったら意味ないでしょう?」(p56)
やってみる
「「とにかく『いい』 と思ったものは、可能性がゼロでなければやってみる。やらないうちから 『ムリだ』と言ってやらないのが、一番良くないですよ」
「飯森は「宝くじだって、買わなきゃ当たらないでしょ?」と言って無邪気に笑った。」(p62)
粘り強い
「一パーセントでも可能性がある限り「NO」とは言わない。逆に様々な角度から見つめ直して工夫したり、考え方を切り替えて提案を実現に持ち込もうとする。
全ては、聴衆をいかに満足させられるか、山響を支えてくれている地元の人々にどうアピールできるかにつながっている。
アプローチは変えても、基本的なビジョンはブレていないのだ。」(p54)
悪口を言わない
「飯森は、決して人の悪口を言わない。
これは、尊敬する母親からの教えでもある。悪口を言うことで、マイナス効果が周囲にもたらされることをよくわかっている。」(p67)
感謝する
「他にも、飯森が子供の頃から実践していることがある。
「ありがとう」という言葉を頻繁に使うことだ。
「何に対しても『ありがとう』と思うんです。嬉しい時はもちろん、嫌な思いをしても『ありがとう』と思います。反省しなさいということだろうし、その足踏みが次のステップへの布石になるかもしれないでしょ」(p67)
力を引き出す
楽団員のマネジメントについての言葉。
「「例えば、何かを指示した時に『できません』って言う人に対して、『できません』と思わせないような工夫が必要ですね」
褒めるべきところは褒めてモチベーションを上げた上で、問題点を適確に指示し、解決策を明確に提示する。褒める方が伸びる人と、そうすると図に乗るタイプの人。怒られるとダメになる人と、その方が発憤していい結果が出る人…。
そうしたきめ細かい対応を行うことで、時には、本人が気づいていない才能を引き出すことも可能になる」(p71-72)
「誰にでも、必ず能力が活かせる場所があり、その場所を見つけてあげることも指揮者の重要な役目なのだ」(p73)
ミスを防ぐ
「「人間であれば誰でもミスをします。でも僕は、ミスをしたこと自体を責めたりはしません」
なぜミスをしたのか、その原因を先送りせずに早く突き止めて、次にミスしないためにどうすればいいかを一緒に考えることが必要だという。
ミスを恐れたら萎縮してしまう。しかし、ミスはカバーできるものという安心感を与えれば、プレイヤーはのびのびと演奏が出来る。
「みんな誰でも、いい演奏会にしたいんですよ。悪くしようと思ってやっている人なんてどこにもいないから」」(p72)
■飯森範親さんを育てたお父さんとお母さん
上で紹介したような考え方は、飯森さんのお父さんとお母さんの影響を強く受けているとのこと。個人的には飯森さんのインタビュー記事の中で紹介されている、お父さんやお母さんのエピソードが一番印象深かった。
麻雀と指揮
お父さんは広告代理店に勤め、何億円いうお金が動くような大きなプロジェクトにも関わっていた方。面白いのが、このお父さんから飯森さんが幼稚園から麻雀を教えられていたという話。お父さんは「葉山のピラニア」と仲間内からは恐れられていたらしい(笑)
そして、「麻雀と指揮は、例えばどう関係するんですか?」という質問に対する飯森さんの答えもふるっている。
「オーケストラの指揮者には、研ぎ澄まされた集中力や、一度に多くのことを理解して瞬時に行動することが要求されます。僕の場合、それが麻雀で養われた部分が大きいんです。
僕の記憶力やスコアを読むスピードだって、やっぱり麻雀で鍛えられたものです。」(p161-162)
海外旅行
その他にも「へえー」と思うようなエピソードはいくつもあって、例えば、小学校の頃に借金をしてまで海外旅行に行ったという話もあった。1ドル360円の時代で、飯森さんが10歳の時に初の海外旅行でアメリカとメキシコまで行ったとのこと。
さりげない応援
子供時代だけではなくて、飯森さんが成長してからも良い影響を与えている。飯森さんが、大学の先輩が華々しくデビューしていくのをみて、プレッシャーとストレスに押しつぶされて、体を壊してしまった時に、お父さんがなぜかゲームセンターへ連れて行ってくれたとのこと。それで、ゲームを思う存分やらせて、すごくいい気晴らしになったと。
印象に残ったのが、この時に、何も口では言わずにただ単に遊ばせていただけというところ。飯森さんも次のように語っている。
「多分、父は「焦ってもしょうがないよ」と言いたかったのかなと思うんですが、口では何も言いませんでした。
ただ黙って、ゲームをさせてくれたことを憶えています。
(中略)
あれはきっと、父なりの愛情表現だったんだと思います。」(p178)
人とのつながりを大切にする
他にも以下のような教えも。
「うちの父がいつも言っていたことで、今でも納得できるのは「頼む時だけ電話をしてくるのは絶対ダメだ」ということです。」
「「何かをしていただいたら、必ずお礼の手紙を書くか、電話をしろよ」というのは、本当に小さい頃から言われていました。」
(p187)
そして、お父さんだけでなく、お母さんもまた素敵でエピソード満載。いくつか紹介すると…
ポジティブ
「根っからのポジティブな人」
「僕は母に叱られた記憶がほとんどありません。何かを失敗しても、母に「それは次につながる失敗だから、今度頑張ればいいのよ」と言われて育ちました。」
(p163)
人と同じことをしない
「母はとにかく人の真似が嫌いな人でした。
なので「誰々ちゃんがやっているから、あなたもやりなさい」とか、「誰々ちゃんはできるのに、どうしてあなたはできないの」などとは、一切言われませんでした。
むしろ、人と違うことを"美徳″みたいに感じていた人です。
何たって、僕のランドセルは緑色でしたからね (笑)。二つ下の弟は茶色でした。
母が「男の子はみんな黒、女の子はみんな赤だなんておかしいでしょ? つまらないでしょ?」と言い出して、まあそんなことに……」(p164)
このランドセルは特注で作ってもらったらしい(笑)
他にも、同級生がスチール製のライトがついた勉強机をみんな持っていた時に、「そういうものじゃ、つまらない」と言ってお城を作ってあげたとのこと。
お城といっても押入れの下の段をカーテンや折りたたみの机を使って改造したものだけど、
「「今日からここがあなたたちのお城よ」と言われた時の嬉しさは、すごく鮮明に憶えています」(p165)とのこと
暮らしを楽しむ
「母は、家の中を花で飾るのが大好きでした。それも、売っている花というより、雑草や庭の隅に咲いた小さな花などでテーブルや部屋を飾るんです。」(p165)
このあたりに共通するのは暮らしを楽しむ姿勢。飯森さんも次のように振り返っている。
「母は、そういう暮らしが豊かになるようなアイディアを考えることが好きでした」(p165)
チャンスを与える
「母はプラスチック製の受け皿に排水用の穴を開けようとして、ドリルがなかったので線香の火を使ったんです。わりと簡単に開けられたので、それを僕と弟にやらせてくれました。
まだ子どもなのに「火を使うのは危ない」と思われるかもしれませんが、母は火の取り扱い方を含めてきちんと教えてくれたし、カッターナイフやハサミなども、二、三才の頃から正しい使い方を体得させてくれました。
とにかく、子どもというものはどんな素質を持っているか分からない、だから出来る限りのチャンスを与えてやりたいと思ってくれていたようです。
僕らが興味を示したことは、よほど危険なことでない限り、何でも経験させてくれて、その都度自分で判断するように接してくれたんです」(p166-167)
対話する
「その代わり、「何々ができたら、こうしてあげる」という交換条件のようなものは、一切ありませんでした。
母とは、何をするにしても、目を見ながらお互いが納得するまで話し合う、そういう対話の機会を持つことが習慣になっていましたね。」(p167)
後押し
飯森さんが中学に上がってピアノと勉強の両立が難しくなって、「ピアノを止めた方がいいかな」と悩んだ時期にお母さんがかけてくれたのが次の言葉。
「ピアノが嫌いになったのならともかく、好きだったら止めてしまわないで、できる範囲で続けてみたら?」
飯森さんはこのアドバイスが大きかったと述べている。
「そのアドバイスのおかげで、一旦、月に一度くらいにレッスンは減りましたが、音楽とのつながりは切れませんでした。
あの時、母の言葉がなければピアノを完全に止めていたでしょうし、そこでブランクが出来ていたら指揮者にはなっていなかったと思います。仮になれたとしても、ものすごく遠回りを余儀なくされたでしょう。
母は、僕の目の前で閉ざされかけていた指揮者への扉を、もう一度開けてくれたんです。」(p170-171)
こうしたお父さんやお母さんがいたからこそ、飯森さんのような素敵な方が育ってきたんやなーということを感じるエピソードがたくさんあった。
■事務局や楽団員の方の想い
最後に、本では飯森さんに主にフォーカスが当たっているけど、周りの事務局の方や楽団員の方の言葉にも想いがこもっていた。
例えば、事務局の斎藤さんの言葉。
「山形くらいの規模の都市でオーケストラが成立しなかったら、日本のオーケストラ文化は本物じゃないですよ。我々は、常にそういう気概を持っていました」(p23-24)
他にも、楽団員の井上さんという方は、飯森さんが来る前にも「これだけのメンバーがいるのに、こんなはずはない」という思いをずっと持っていたとのこと。
こうした想いを持つ方々が元々山形交響楽団にいたからこそ、飯森さんとの化学反応が生まれて良い方向に進んでいったのかなと感じた。
総じて、気持ちがフレッシュになって、楽しく読める良い一冊やった。
飯森範親さんも
「これはクラシック・ファン以外の方にももぜひ読んでいただきたい本です。この本には、僕がこれまでの人生で得た多くのヒントがちりばめられています。」
と述べているように、クラシック音楽に疎い自分のような人が読んでも楽しめる本やと思う。高校生とかにもオススメかもなー。
あと、山形にも行ってみたくなったし、山形交響楽団の演奏も聞いてみたくなった。それだけの力がある本やった。「山響温泉グルメツアー」っていうのが前開催されてたらしいけど今はやってないらしい。残念やなー。なんかの時に山形行く機会でも探そうかな。
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