2012年11月22日木曜日

「現代語訳 論語と算盤」を読むと「論語」をビジネス書としても読める気がする


現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

「日本資本主義の父」「実業界の父」とも言われる渋沢栄一の「論語と算盤」のうち、重要部分を現代語訳したもの。

翻訳した守屋さんは、「「噛み砕いて訳しすぎ」「超訳になりすぎ」といった批判であれば(中略)甘んじて受けたい」(p11)と言っているくらい、分かりやすさが重視された訳になっているのでかなり読みやすい。

また、元々の文章も講演の資料だったらしいのもあってか、話を聞くように読める。結構いろんな話があちこちに飛んでいるけど、それはそれでおじいさんの話を聞くようで面白い。しかし西郷隆盛に意見したとか普通に出てくるのがスゴイ。


■「論語と算盤」の現代的意義
内容についてはタイトルだけ見ると、今さら論語と算盤?という感じがしないでもないけど、守屋さんの言葉を読むと現代にも大きな意味があると感じさせられる。

守屋さんは、渋沢栄一が資本主義の問題点を見ぬいていて、その対抗策として「論語」を重要視していたと述べている。

「今から百年以上前に、「資本主義」や「実業」が内包していた問題点を見ぬき、その中和剤をシステムのなかに折り込もうとした」(p8)

資本主義経済は、さまざまな面で発展をもたらした一方、バブルや金融危機のように暴走してしまう可能性がある。その時に、暴走に歯止めをかける仕組みとしての「論語」が想定されている。

「わたしが常に希望しているのは、
「物事を進展させたい」
「モノの豊かさを実現したい」
 という欲望を、まず人は心に抱き続ける一方で、その欲望を実践に移していくために道理を持って欲しいということなのだ。その道理とは、社会の基本的な道徳をバランスよく推し進めていくことに他ならない。道徳と欲望とがぴったりくっついていないと、前にも述べた、中国が衰えたような成り行きになりかねない。また、欲望がいかに洗練されようと、道理に背いてしまえば、「人から欲しいものを奪い取らないと満足できなくなる」という不幸をいつまでも招いてしまうものなのだ。」(p89-90)

このあたりの話は、今の話として読んでも違和感ない。「明治維新以来」を「第二次世界大戦後以来」と置き換えてもそのまま通じる気がする。

「明治維新以来、物質的な文明が急激な発展をしたのに対して、道徳の進歩はそれに追いついてはこなかった。」
「社会正義のための道徳を身につけるように心を用い、物質的な進歩に匹敵するレベルまで向上するのが目下の急務には違いない」(p174)

利益至上主義がある一方、企業の社会的責任といった話もあって、いろんな価値観が錯綜する中で、渋沢栄一を通して論語を学ぶ意義について、守屋さんは次のように述べている。

「われわれ日本人が「渋沢栄一」という原点に帰ることは、今、大きな意味があると筆者は信じている」(p10)


■論語はもっと身近なもの
本書では、「論語」には「人はどう生きるべきか」「どのように振舞うのが人として格好よいのか」といった内容が書かれており、基本的な教科書になると述べられている。

渋沢栄一も次のように述べている。

「『論語』は決してむずかしい学問上の理論ではないし、むずかしいものを読む学者でなければわからない、というものでもない。『論語』の教えは広く世間に効き目があり、もともとわかりやすいものなのだ。それなのに、学者がむずかしくしてしまい、農民や職人、商人などが関わるべきではないし、商人や農民は『論語』を手にすべきではない、というようにしてしまった。これは大いなる間違いである」(p24)

「孔子の教えは、実用的で卑近な教えなのだ」(p25)

以前、漢文書き下しで「論語」を読んだことがあったけど、その時は全体的に「ふーん」という感じでしかなかった。

けど、この本を読むと、渋沢栄一の解釈が共感しやすいからか、翻訳が分かりやすいこともあってか、もっと入りやすかった。リーダーシップや人材育成についての話もたくさんあり、ビジネス書としても普通に読める感じがする。


■成功と失敗は自分の身体に残ったカス
考え方の面で面白いなと思ったのが、成功と失敗は自分の身体に残ったカスというところ。

「人は、人としてなすべきことを基準として、自分の人生の道筋を決めていかなければならない。だから、失敗とか成功とかいったものは問題外なのだ。かりに悪運に助けられて成功した人がいようが、善人なのに運が悪くて失敗した人がいようが、それを見て失望したり、悲観したりしなくてもいいのではないかと思う。成功や失敗というのは、結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなものなのだ。
 現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことだけを眼中に置いて、それよりももっと大切な「天地の道理」を見ていない。彼らは物事の本質をイノチとせず、カスのような金銭や財宝を魂としてしまっている。人は、人としてなすべきことの達成を心がけ、自分の責任を果たして、それに満足していかなければならない」(p218)

「成功や失敗といった価値観から抜け出して、超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである」(p220)


■自分で箸をとれ
もう1つ面白いなと思ったのが「自分で箸を取らなければダメなのだ」という表現。立場上いろんな人から頼みごとをされていたとのことやけど、何かやってもらいたいという姿勢の人に対する苦言。

このへんは、上司が部下に感じることとして読んでも同じようなことが言える気がする。

「人材登用のお膳立てをして、われわれは待っているのだが、この用意を食べるかどうかは箸を取る人の気持ち次第でしかない。ご馳走の献立をつくったうえに、それを口に運んでやるほど先輩や世の中はヒマではないのだ。かの木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、賤しい身分から身を起こして、関白という大きなご馳走を食べた。けれども彼は、主人の織田信長に養ってもらったのではない。自分で箸を取って食べたのである。「何かひとつ仕事をしてやろう」とする者は、自分で箸を取らなければダメなのだ。」(p48)

「誰が仕事を与えるにしても、経験の少ない若い人に、初めから重要な仕事を与えるものではない。藤吉郎のような大人物であっても、初めて信長に仕えたときは、草履取りというつまらない仕事をさせられた。」(p48)

「受け付けや帳簿つけといった与えられた仕事を、そのときの全生命をかけてまじめにやれない者は、いわゆる手柄を立てて立身出世の運を開くことができないのだ。」(p50-51)

まずは目の前のことをしっかりやろうぜっていう話か。このへんの話とか、今にも通じる話が結構たくさんある。

その分進歩してないのかーっていう気にもなるけど(^^;)、逆に、課題は今も昔も同じなんやなーという励まされる気にもなる一冊やった。

しかし、渋沢栄一はノーベル平和賞の候補にもなってたらしい。知らんかったー。もっといろいろ読んでみようかな。

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