2012年11月27日火曜日

渋沢家三代:幕末から高度成長期までの約一世紀におよぶ日本の歴史が凝縮されている渋沢家の物語


渋沢家三代 (文春新書)

「日本資本主義の父」とも言われる渋沢栄一と、その子の篤二、孫の敬三とそれをとりまく人々の三代にわたる歴史を描いた本。

史料や取材をもとにしているので基本的に事実なんやけど、まるで物語のような話で小説を読むように読めた。

渋沢栄一の話はいろんなところで聞くものの、その子や孫の話は聞いたことなかったけど、それぞれに興味深い物語があった。

■渋沢家三代の歴史
著者は、三代の歴史を集約する言葉としてそれぞれの代を以下のように表現している。

  • 渋沢栄一…家父長制
  • 渋沢篤二…放蕩
  • 渋沢敬三…学問への没頭

そしてまた、この三代の歴史には、
「幕末から高度成長期までの約一世紀におよぶ日本の歴史が凝縮されている」(p277)
とも述べている。

確かに読み終わった後は一冊の歴史書を読み終わった後のような読後感がある。

渋沢栄一は江戸に産まれ、明治維新、第一次世界大戦から満州事変までの時代を生き、孫の敬三は戦後の高度経済成長期の始まりあたりまでを生きたので、著者の言うように、近代の歴史が凝縮されている感じがする。

そしてまた、著者は最後の方で以下のようにまとめている。

「渋沢家三代の歴史をあらためてふり返ると、その終焉は、日本がかつてもっていた伝統や、日本人の誇りそのものの終焉だったのではないかとの思いが深い。なぜなら、彼らほど心のなかにあざやかな印象を残して消えていった一族は、それ以後、絶えて久しく現われていないと思うからである。
 栄一は近代的企業の創設に命を燃やした。篤二は廃嫡すら覚悟して放蕩の世界に耽溺した。そして敬三は学問発展に尽瘁して、ついに家までつぶした。
 事業にしろ遊芸にしろ学問にしろ、自分の信ずる世界にこれほど真摯に投入していさざよく没落していった一族が、ほかにいただろうか。渋沢家三代のおおぶりな健全さとなにもかも心得たふところの深さは、日本人の精神からことごとく消えてしまった。
 渋沢一族が残した最大の遺産。それは、第一銀行や国立民族学博物館などの有形なものではなく、われわれが忘れてしまったみごとな日本人の、三代にわたる物語だったのではないだろうか。」(p277)

栄一が経済界に残した功績や、篤二の周りの人からの慕われぶり、敬三が民俗学に残した功績という表の「公」的な話だけでなく、後継者問題や親族とのやりとり、家をまとめるリーダーシップとか、言わば「私」の部分まで新書一冊でよくまとめたなーと思うけど、それぞれの真摯さには心を打たれる。

この本を読むと、上の著者の言葉の意味がよく分かった。

家の歴史という観点では、やはり栄一という偉大な人間の子孫が抱える難しさというところが印象に残った。


■篤二の悲哀
栄一は武士の気風を持って日本という国づくりに貢献していたけど、その子である篤二は重圧に苦しんだこともあってか放蕩する。

芸者と生きて家に寄りつかなくなってしまい、最終的には後継者としては廃嫡され、孫の敬三が当主を継ぐことになる。

著者は、E・H・エリクソンの言うところの「殺された自己」だけに生きざるを得なかったと述べ、次のような言葉をひいている。

「偉大な人物の長男の場合、事態はつねにこうである。つまり、息子が矯正したり、完成したりするものは何も残されていない。父親の生涯で悲しまれ、打ち捨てられた可能性として、それとわかるほどに残された部分を、息子が徹底的に生きようとしても、何も残されていない。残されたのはただ、その人の否定的同一性であるところの「殺された自己」だけである」(p146)

また、栄一発案の徳川慶喜公伝を作る会に参加したことが、篤二を悲劇にまきこむきっかけになったのではとも述べている。

徳川慶喜も激動の時代を生きたけど、後半生は隠居状態で写真や自転車、狩猟などの趣味に生きた。篤二も同じように趣味の世界に生きたので共感する部分があり、自分の人生の理念型をみたのではということ。

これは、単純に放蕩したダメ息子というイメージでは片づけられないと思う。篤二が子ども時代をふり返って残した以下の言葉は胸を打った…

「何分外部に大きな仕事が澤山あった父としては家の内に於ける父として、子供達と共に居ることは賓際出来なかったのでありますから、普通の父親のやうでなかったことは、私のみでない他の兄弟達も等しく思って居たのであらうと思ひます。だから私などは父の風邪を希望した、希望したと云っては可笑しいが、軽い風邪で家に引籠られることを望んだのでした。申すまでもなく重い風邪では困る。極く軽い起きて居て静養される程度を望んだのであります)」(p134-135)

家にいない父に家にいてほしいから風邪をひいてほしい、でも思い風邪だと困るから健康には支障ないくらいの軽い風邪だけど家で静養する必要があるくらいの風邪をひいてほしいという想い。本の中盤は篤二の話がメインやったけど切なかった…


■敬三の情熱とリーダーシップ
そして、篤二の廃嫡を受けて当主を継いだのが栄一の孫で篤二の子の敬三。

敬三は民俗学への強い情熱を持っているけど、親の篤二を見てきたこともあってか、家という集団をまとめていくためのバランス感覚をとっていた。

例えば、高校に行く時に本当は農科を志望していたが、栄一に頼まれて法科に変更し、銀行業務についてほしいとお願いされる。
このことについて、後にこう語っていたということ。

「あのときは悲しかったよ。悲しくて悲しくてしょうがなかった。命令されたり、動物学はいかんといわれたら僕も反発していたかもしれない。だけどおじいさんはただ頭を下げて頼むというんだ。七十すぎの老人で、しかもあれだけの仕事をした人に頼まれると、どうにもこうにも抵抗のしようがなかったよ」(p188)

そんなわけで法科にも進み、銀行勤めもやって日銀総裁、大蔵大臣を歴任した経済人として生きた。

しかし一方で、篤二と似たように学芸への世界の情熱も持っていた。敬三が情熱を注いだのは民俗学。

民俗学の発展に寄与し、柳田國男や折口信夫と並び称されているとのこと。「忘れられた日本人」を書いた宮本常一にも協力。これは知らんかったけどその情熱と功績はすごい。

著者も次のように述べている。

「もし彼の物心両面にわたる援助がなかったなら、民俗学者宮本常一は絶対に生まれていなかった。それどころか、日本の学問発展はかなりいびつなものになっただろう」(p13)

そしてまた、渋沢家という1つの家の当主として、家という一つの集団をリードする配慮がすごい。

例えば、昭和16年という戦時中に敬三の伯父が亡くなって墓が建てられた時の話。その2年前に、敬三の伯母である琴子が亡くなっていたけど、その墓石とみごとに一対をなしていた。

琴子の孫が驚いて聞いたところ、敬三は次のようにそっと打ち明けたとのこと。

「あれは君のお祖母さんの墓石を買ったとき、僕が買わせてある所に保管させておいたんだ。こういうことはデリケートで難しいもんでね。買ったことがわかると縁起でもないと怒る人もいるだろう。さりとて、いざ墓をつくる段になってうまい石が見つからず、お祖父さんの方が、お祖母さんのより極端に貧弱だとなると、文句のでることにもなりかねないんだ。だから、僕は誰にもいわず今日まで墓石を寝かして置いたんだよ」(p241)

うーん、この配慮はすごい。また、別のところで述べていた言葉で次のような言葉もある。

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけてゆくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつける者も多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」(p238)

こういう人格がどういうところから来たのか、知人から「先生の人格は宗教によるものですか」と聞かれた時、敬三は次のように答えたということ。

「いいえ、そうではありません。親戚ですよ。親戚ほど嫌なものはありません」(p242)

思わず笑ってしまったけど、よくよく考えるとものすごい滋味のある言葉な気がしてきた。栄一もすごいんやけど、敬三もすごい。


■にこやかなる没落
渋沢家三代の物語の最後は「にこやかなる没落」という言葉で締めくくられる。

戦後、敬三は自分自身も対象となる財産税の実施を断行。自分自身も五千坪の豪邸を財産税のかわりに物納し、もともと執事が住んでいたうす暗い部屋に移り住んだ。

敬三が屋敷を物納すると聞いて、大蔵省の職員たちすらこぞって反対したけど、次のように答える。

「いや、僕は財産税というものを考え出して皆を苦しめた。その元凶がそんなことをするわけにはいかない。僕はまっ先に献納する」(p248)

そしてまた、次のような言葉ものこしている。

「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」(p251)

この言葉のとおり、元の敷地内にあったテニスコートの芝生をはがして菜園をつくって野菜を育てる。

敬三が大蔵大臣を辞めた後、親族が訪ねていくと、

「地下足袋に尻っぱしょりした格好で畑から現れ、とれたばかりの野菜を阪谷にふるまった」(p251)

ということ。そうした敬三を見て、次のように感じたという話。

「これから日本中を旅して全国の篤農家たちを結びつける仕事をやるつもりだ、と晴れやかな表情で語る敬三をみて、阪谷は、戦後のドン底生活の時代に何か宝石でも見つけたような思いにかられた」(p251)


■葬儀の時に…
こうした生き方は、本を読むだけでも心に残ったけど、同時代の人にはさらにやったと思う。

敬三が亡くなった時、評論家の大宅壮一は「最後のエリートが死んでしまった」と言い、雨の中の葬儀には7千人が参列したとのこと。

栄一の葬儀にも1500台車列が並び、青山の斎場から墓がある谷中の寛永寺までの沿道には、学校の児童を含めて4万人以上の人が参列したとのこと。

確かに最近はこういうの無いよなー。よく自己啓発系の本でも、自分の葬式の時にどう言われたいか考えましょうっていう話があるけど、それを考えると栄一も敬三もすごい。そして篤二の人物像も魅力的だった。

最初にも引用したけど、著者の言葉。

「彼らほど心のなかにあざやかな印象を残して消えていった一族は、それ以後、絶えて久しく現われていないと思う」(p277)

本当にあざやかな印象を与えてくれる一冊やった。

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