2012年11月9日金曜日

<育てる経営>の戦略:成果主義でなく日本型年功制

<育てる経営>の戦略 (講談社選書メチエ)


著者が掲げる「育てる経営」について述べた本。「育てる経営」とここで言っているのは、手法や方法論の話ではなくて考え方、信念、思想の話。

人材育成を全くやっていないという会社はそうないと思うけど、思想のレベルで人を育てるということを徹底して考え、それに即したシステムを構築できているかどうかというとそうでもないという見方。

特に、一時流行した成果主義は、育てる経営と真逆をいくシステムになっているとされ、批判されている。

著者は、成果主義は次のように言っているのと同じ様な仕組みだとしている。

「成果をあげればカネを払うと言っているのだから、嫌な仕事でも文句を言わずに働け。ただし、失敗したら君の責任だからな。たとえそのことで、君もしくは君の家族が路頭に迷うようなことがあったとしても、私も会社も一切関知しない」(p187)


■成果主義の違和感
本書の前半部分はいかに成果主義が人材育成をダメにしていったかその理由が述べられている。

そもそも評価は主観的なもの
まず、成果主義が導入される際に、評価の客観性の話もあわせて言われていたが、そもそも評価というのは最終的には主観的なものであった。

著者は次のように述べている。

「本来評価というものは、おおげさにいえば、上司が己の全存在をかけておこなうべきものなのであって、ダメならダメ、よいならよいとはっきり判断して、自分が責任をもって伝えるべきなのだ。最後の最後は主観的なのである。上司の判断そのものなのだ。」(p23)

このあたりは、松井道夫さんの本の好き嫌いで人事 に述べられていたこととも通じるなーと思った。


そもそも評価は一致していた
あわせて興味深いのが、そもそも客観評価しなくても大体評価は一致していたという話。

エース級の社員や、「あいつはできる」とみんなから一目置かれるような人は、大体誰が思い浮かべても共通だった。

逆に、「あいつはしょうがないな」といういわゆる「ダメ社員」についての評価も大体一致していたとのこと。こういった感覚はそもそも上司が持っていた。

ところが、そこに「客観評価」を持ち込むとどうなるかというと…

「「どんぐりの背比べ」的な普通の人びとに対しても、成果を細かく査定して差をつけることに腐心していると、「ある基準に対しては客観的」かもしれないが、社内評価が一致していたはずの肝心の「エース級社員」「ダメ社員」といった人に対する評価の方がずれたり、不安定になったりしてくることになる。」(p12)

これが成果主義の違和感の正体だと述べている。


主観的なものを客観的なものに見せかけることで生じる問題
最終的には主観でしかない評価を客観的なものにしようとすることでひずみが生まれる。

例えば、そもそも主観的な好き嫌いや相性が入ってくる時に、まだ好き嫌いや相性でと言われれば受け入れ難くても割り切りやすくはなるが、それが評価点数になって、君は○○点だからという形に変換されてしまう。

本来は上司が自分の責任をもって自分の言葉で語り、その中で本人の成長や会社への貢献といった視点を踏まえながら評価することで育成につなげるものだったはずが、単に機械的な数字になってそのあたりが抜け落ちてしまう。


評価結果だけに焦点が当たり育成に逆効果
さらにはこんなことも起き得る…

「ABCDEの五段階評価でA君はA、D君はDと点数をつけてフィードバックした途端、D君はあなたのアドバイスを聞いた後、「でも結局、僕ってD評価なんですよね。失敗ばかりしてきたから、その評価は納得できますけど」と「Dランク人生」を歩みはじめてしまうのだ。ある会社の例では半年は使い物にならなかったという。向上心を失い、もう育たなくなってしまうのである。本来のあなたの評価は、点数なんかよりも、もっときめ細かくて、育成するという観点からアドバイスを与え、次の仕事を与えるはずだったのに、成果主義はあなたのそうした部下育成能力の発揮すら阻んでしまう」(p45)

「目標達成度を採点するような採点方法は、所詮は一〇〇点満点の減点方式。あそこが悪い、ここが悪い、ここが間違っているからこれだけ減点する、と欠点をあげつらい、明確に指摘するのが「透明性の高いきちんとした評価」なのである。確固たる自信と実力のない人間は、これだけでも気持ちが萎えてしまう。だから評価の透明性の名の下に、これをやられると、途端にめげて、自信もやる気も失ってしまう」(p44-45)

この例は成果主義や「客観的」評価だけが原因ではないと思うけど、こういった形で評価の結果だけがフォーカスされて、本来の育成という目的が忘れられてしまうことはあり得る。


■日本型の年功制
じゃあどういうシステムが良いかという話では、伝統的な日本の年功制。

これは年功序列という言葉でイメージされるような、年齢順にすべて待遇が決まるという仕組みではなく、社員同士で差はつく仕組み。

お金ではなく次の仕事
何で差がつくかというと報酬ではなく、次の仕事の内容。例えば、こんな感じ。

  • 自分が考えた企画を採用してもらえる
  • 希望するプロジェクトに参加できる
  • 希望する上司の下で働ける
  • 海外出張に行ける

「金ではなく次の仕事を求めているのである。そうやって与えられる新しい仕事、次の仕事を通して、人は仕事の面白さに目覚め、成長していく。金では人は育たない。次の仕事を与えられることで、はじめて人は育つのだ。パフォーマンスが向上し、やがては会社の真の成長につながっていくのだ。まちがいなく、金ではなく次の仕事で報いるシステムが「育てる経営」には適合している」(p92)

それと表裏一体で、仕事を続けられるだけの生活費を保証できるような賃金体系があったということ。

いくら仕事が面白くても、生活できなかったり家族を支えることができないような給料しかもらえなかったら続けることができないので、その部分を補えるような生活保障給型の賃金体系になっている。

そして、これらの仕事の動機づけの部分と保障の部分とは切り離して考え、二本立てのシステムが、著者が唱える「日本型年功制」ということ。


日本型年功制
まとめると…

「①本質的に、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムだった(つまり、仕事の報酬は次の仕事)

 ②貸金制度は、動機づけのためというよりは、生活費を保障するという観点から「年齢別生活費保障給型」の賃金カーブがベース・ライン(平均値)として設計されてきた。」(p77)


■仕事のモチベーション
人は金のみのために働くにあらず
上記と関連して、仕事に対するモチベーションとしてお金を使うことの有効性について、事例が紹介されていた。

1つはデシという心理学者の実験。これは有名なので他の本でも読んだことがあるけど、大学生にパズルを解かせる実験。パズルは大学生にとっても十分面白いもの。

あるグループには、途中で解いたパズルの数に応じて賞金を与え、別のグループには何もしなかった。

そうすると、休憩時間になった時に、賞金をもらったグループは自由時間には休憩するようになり、もららわなかったグループでは休憩時間もパズルを解き続けたというもの。

要するに、パズルを解くというその作業自体の面白さが、お金という報酬がからむことによって失われてしまったという話。

逆に言うと、その作業自体が面白い時には報酬がなくてもやり続けるということでもある。


金のインパクトの強さが仕事の喜びを奪う
もう一つ、同じデシという人が紹介しているエピソード。

「第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、一人のユダヤ人が目抜き通りに小さな洋服仕立屋を開いた。すると嫌がらせをするためにポロ服をまとった少年たちが店先に立って「ユダヤ人!ユダヤ人1」と彼をやじるようになってしまった。困った彼は一計を案じて、ある日彼らに「私をユダヤ人と呼ぶ少年には一ダイム(=一〇セント硬貨)を与えることにしよう」と言って、少年たち一人ずつに硬貨を与えた。戦利品に大喜びした少年たちは、次の日もやってきて「ユダヤ人!ユダヤ人!」と叫びはじめたので、彼は「今日は一ニッケル(=五セント硬貨)しかあげられない」と言って、ふたたび少年たちに硬貨を与えた。その次の日も少年たちがやってきて、またやじったので、「これが精一杯だ」と言って今度は一ペニー(=一セント硬貨)を与えた。すると少年たちは、二日前の一〇分の一の額であることに文句を言い、「それじゃあ、あんまりだ」と言ってもう二度と来なくなった。」
(p73)

このあたりの話はモチベーション論としても考えさせられるし、組織の制度設計では重要になってくると思う。

この本全体的には、成果主義批判の立場なので偏っていると言えば偏っているけど、日本型の仕組みを考えるという面では参考になる考え方がある一冊だと思った。

ところで、本の後半の方は、組織資源論や青色LED訴訟における発明の対価の妥当性等、関連はないとは言えないもののこの本の構成上からは関連性がわかりづらい内容が入っていて、若干寄せ集め感があった。

それらの章もそれらの章で面白いは面白かったけど、どうせならメインテーマをもっと深掘りした議論が読みたかった。そのへんは別の本でカバーされてるのかなー。

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